王平伝①

王平伝①

時は西暦215年。劉備は兵を率いて巴蜀に入り、王平はその劉備軍の兵となる。時は乱世、時代の流れが容赦なく王平を飲み込んでいく。

人物紹介

何平(かへい)・・・この作品の主人公。後の王平。
朴胡(ふこ)・・・何平の幼馴染。父親が軍人で、自身も軍人に憧れる。
句扶(こうふ)・・・兵糧庫で出会う少年。小さくて、すばしっこい。何平に懐く。
張嶷(ちょうぎょく)・・・兵糧庫で出会う先輩。兄貴肌で、功名心が強い。
杜濩(とこ)・・・劉備軍の山岳戦闘部隊隊長。何平の上司。
袁約(えんやく)・・・杜濩の副官。
王双(おうそう)・・・洛陽の新兵。何平と部隊を作る。
王歓(おうはん)・・・王双の妹。何平と恋に落ちる。

劉備(りゅうび)・・・蜀の主。徳の人。
曹操(そうそう)・・・中原の支配者。劉備のライバル。
許褚(きょちょ)・・・曹操のボディガード。
夏侯淵(かこうえん)・・・漢中魏軍司令官。
張郃(ちょうこう)・・・曹操軍の司令官。数々の軍功を持つ。
夏候栄(かこうえい)・・・夏侯淵の五男。優秀な司令官になることを志す。
趙顒(ちょうぎょう)・・・夏侯淵の副官。夏候栄の教育係も務める。

0.プロローグ

 葉でできた二艘の船が、岩間の水上を滑っていく。やはり何度やっても、何平(かへい)の作った船の方が速い。
「やっぱり何平には敵わないな」
「お前の船は、先が丸過ぎるんだ。もっと細長くしてやらないと、速さはでないぞ」
 どんな葉であろうと、何平は速い船を作ることができた。同じ種類の葉であっても様々な形の船を作れるし、その形が違おうと速さが変わることはない。
 朴胡(ふこ)が言われるままに先の細長い船を作ってもう一度それを川に浮かべると、確かに船の速さは上がった。しかし、やはりまだ何平の船の方が速い。
「子均、おかえり」
 川辺で、林の中で、時には山を登って遊び、家に帰ると母が祖母と一緒に温かい食事をつくって待ってくれている。父は、何平が幼い頃に戦に出て死んでいた。父がいないとはいえ、母の親戚が色々と生活を助けてくれるので別段貧しいということはない。平凡な家庭だと言えるのだろう。
 食卓で、蜀の主であった劉璋が劉備という者に降伏したという話になったが、その話に何平は関心を持てなかった。別世界の出来事だ。別世界のことは、別世界の人間がやればいい。
 次の日、朝早くから朴胡が慌てた様子で何平の家へとやってきた。
「大変だ。劉備の軍勢が、この村の方に来るらしいぞ」
 家を出てみると、村の大人達は皆騒然となっていた。誰も彼もが、どうしていいか分からないといった感じだ。
「母さん、ちょっと出てきます」
「どこへ行こうというの、子均。外は危ないから、家の中にいなさい」
 必死に止めようとする母の声を振り切り、何平は朴胡と共に駆けた。大変だ、などと朴胡は叫んでいたが、その顔は何平と同じく笑っていた。こんなに珍しいものを、二人が見逃せるはずがないのだ。村を抜けて林をかき分け丘を登りこの辺りで一番見晴らしのいい崖に着くと、二人はそこから下を見下ろした。
 今まで見たこともない大量の人が、二人の真下を整然と並んで通っていく。その先頭には、張と書かれた旗が威風堂々と翻っている。
「朴胡、これは何人くらいか分かるのか」
 朴胡の父は軍人であり、彼自身も軍人の道を歩もうとしていた。
「二万くらいかな。こいつら、どこへ向かってるんだろう」
「まさか、俺達の村に向かう気じゃないだろうな」
「俺達の村には何もないぜ」
 そう言う朴胡の手が震えていた。それはあり得るということか、と何平は思った。
 しばらく軍勢が続くと、一際強そうな兵士達に囲まれた輿がやってくるのが見えた。その傍らには、劉の旗。何平は字が読めなかったが、その旗はさっきの力強かった張の字とは違い、不思議な大きさを感じさせる何とも言えない字に見えた。
「何平、あれが大将のようだな」
「豪華なもんだ。俺も一度でいいからあんな輿に乗ってみたい」
「意外と平気なんだな。俺はさっきから手が震えっぱなしだ、何平」
「だってこんなもの、なかなか見れるもんじゃないぜ」
 何平はもっとよく見ようと、木の枝を片手で掴んで身を乗り出した。
「よせ、何平。それ以上乗り出したら見つかるぞ」
「大丈夫」
 と、言った瞬間、何平が掴んでいた枝が大きな音を立てて折れた。咄嗟に出された朴胡の手を掴んだが、その足場も悪くて二人はそこから転げ落ちた。真下には、劉の旗と輿。
「何者だ」
 輿を囲む兵が持つ槍の穂先が一斉にこちらに向いた。朴胡は腰を抜かしてしまって声すら出ない。
「待ってください。自分達は、この先の村に住む者です」
 真っ白になった何平の頭の中から、かろうじてそれだけの言葉が出てきた。
「やめよ、子竜」
 輿の中から、声がした。そしてその声と共に、異様なまでに耳の長い初老の男が姿を見せた。その声は、この老人から発せられているとは思えないくらい、澄んだきれいな声だった。
「しかし、殿」
「この二人はまだ子供ではないか」
 大きい。何平はその大きさに圧倒された。体が大きいわけではない。むしろその体は、周りを囲む兵の誰よりも小さい。その不思議な大きさに圧倒されようとも、それが与えるものは恐怖といった類のものではない。もっとそれに触れていたいと思わせるような、優しさを感じさせる柔らかな大きさだ。
「子竜、おぬしは少し気を張り詰めすぎてはいないか。仮にこの二人が敵であろうと、こんな年端もいかぬ子等を傷つけてはならん。それが、我が軍というものであろう」
 子竜と呼ばれた男がその太い腕をさっと横に払うと、自分達に向けられた槍の穂先は一斉に天を向いた。助かった。と、何平は大きなため息をついた。
「不安にさせてしまって、悪かった。我々は、そなた達の村を襲おうとしているわけではないのだ」
 この男を前にして、恐れを抱く必要はないと何平は思った。つい先ほどまで死すら考えていた何平の心は、この声を聞いていると不思議と落ち着くのだった。隣では、腰を抜かしていた朴故が居住まいを正して座りなおしていた。
「君達は、これから自分の村に帰って、村の仲間達に何も心配することはないと伝えてくれぬか」
 何平は、何度も大きく頷いた。
「玄徳様」
 羽でできた扇を持った若い男に呼ばれ、耳の長い老人は二人に微笑みを残しながら輿のへと戻っていった。
「二人共、分かったら早々にここから立ち去りなさい」
 何平と朴胡は一礼すると、走ってその場から駆け去った。
「あれが劉備という人か。周りの兵士は強そうだったけど、あの人自身は優しそうな人だったな」
 言いながら何平は朴胡の方をちらりと見た。朴胡は、涙を流していた。よく見ると、朴故の股間の辺りはびっしょりと濡れている。何平は、それを見て見ぬふりして村まで駆けた。


1.襲われた兵糧庫

 劉備軍はその後、何平の住む巴西(はせい)の大きな豪族である黄権(こうけん)を帰順させた。帰順させたといっても戦によってではない。それは話し合いによってであり、流れた血は一滴もなく周りの村で略奪があったという話も聞かなかった。何平はそれを聞いて、戦なくして軍を持つ者同士が分かり合えるものなのかと驚いた。
父は何平が五歳の時に、漢中の張魯と益州の劉璋が行った度重なる戦の中で死んでいった。たった二人の都合のために父親を奪われた何平は、行き場のない憤りを母へとぶつけた。何故、父さんは死ななければいけなかったのか。男がそうやって泣いてはいけませんと言う母の前で、何平は大声で泣きに泣いた。涙がとめどなく溢れてくるところに、母の平手打ちがとんできた。子均、それは、男として恥ずべきことです。そう言う母の顔は毅然としていたが、目は泣いていた。それでようやく、何平は泣くことをやめた。それから何平は、命を奪う戦というものを身近に感じるようになり、自分もいつかは一人の兵となるのだろうと漠然と考えていたのだった。
 何平は、劉備軍に興味を持った。日ごろから母の前では父を奪った戦は嫌いだと言っていたが、それは母に対する気遣いがほとんどであり、本当は歳を重ねて体が大きくなってくるに伴って戦に対する興味も大きくなっていた。母の目を盗んで剣に見立てた木の棒を振ることもあったし、実際に朴胡とそれで打ち合うこともあった。
 劉備軍がこの村の付近を通ってから一ヶ月が過ぎようとしていた頃、役人が村にやってきて戸籍を整備しだし、それに見合った徴兵を始めた。その徴兵される男の中には、何平の名も入っているということを、軍人見習いの朴胡が伝えに来た。
「そんな、まだ何平は十五になったばかりだというのに」
 朴胡を前にして、母は顔面を蒼白にして言った。
「大丈夫ですよ。私は正式に軍に所属しているので前線に行きますが、まだ若い者は兵糧を扱う仕事をするだけです」
「それでも、あと数年すれば兵として戦わなくてはいけなくなるのでしょう?」
 朴胡が困ったような顔を何平に向けてきた。母がこう言うだろうとは分かっていた。しかし何平は、もう戦に対する興味を包み隠すつもりはなかった。
「母さん、俺も男なのです。ここで兵に取られなかったとしても、俺が男である限りいずれまた別の形で戦わなくてはならない時がくるでしょう。同じ戦うなら、俺は父さんが命を落とした戦場で戦ってみたい」
 母は、俯いたまま黙ってしまった。
「そんな顔をしないで下さい、母さん。必ず生きて帰ってくると、約束します」
「必ず、帰ってくるのですよ。子均」
 父も、このように戦場へ行くことを止められたのだろうか。何平は母の言葉を聴きながら、ふと思った。
「眼下の敵は、劉備様がこの地を治めることを良しとしない土豪たちだ。そいつら自体は単なる烏合の衆でしかないのだが、裏では北国の軍が糸を引いているらしい」
 北国の軍は劉備が益州を奪ったのと同じ頃に漢中の張魯を滅ぼし、今ではその勝者同士が巴西の地で戦を始めようとしているのであった。
「そいつらが拠る山々が険阻で厄介なのだと、隊長の杜濩(とこ)様が言っていた」
「成都から、軍はこないのか?」
 成都とは、益州の州都である。
「張飛様という将軍が一万と共に派遣されるらしいが、劉備軍は精強でもまだ山岳戦には慣れていないらしい。だから俺達のような山岳民族ががんばらないといけないんだ」
 朴胡は興奮したように言っている。初陣へと向かう緊張を打ち払おうとしているのかもしれない。
「運ばれた兵糧は一旦、俺等の村から目と鼻の先にある宕渠(とうきょ)県に集められる。そしてそこを拠点として、巴西の賊を一掃するんだ」
 熱を込めて言う朴胡を前にして、何平も手の平にじんわりと汗がでてくるのを感じた。ただ、自分は兵糧庫付きの兵だ。この緊張感は朴胡のそれと比べれば小さいのだろう。
「山岳戦だと、山の中にたくさんの罠もあることだろう。そんな山の中を進む時は、お前といつも山の中で遊んでいたことが役に立つんだろうな。必ず手柄を立ててやるんだ」
 そう言う朴胡が、何平には少し羨ましく感じられた。
 
宕渠県に築かれた兵糧庫は深い森の中にぽつんとあり、そこで伐り倒した樹木で幾つもの倉が造られていた。そこが人目につかない所であるのは、敵にその場所を特定されにくくするためだ。
「よいか皆、鼠を見かけたら容赦なく殺せ。兵糧を盗もうとする奴も鼠と同じだ。兵糧は軍の命と言っても過言ではない。大事に扱うんだぞ」
何平と同じくして宕渠に入った者達を前にして、左腕の無い老人が言った。隻腕で髪や髭に白いものがやや混じっていたが、その老人の強い語気には十分過ぎる程の迫力が感じられた。
そしてその老人に、自分が担当する倉の前まで連れて行かれた。
「兵糧のある倉には、一軒につき三人が配属される。寝食もそこですることになる。お前はここだ。おい張嶷(ちょうぎょく)
 中から、上半身が裸の若い男がでてきた。若いといっても、自分より歳は五つくらい上だろうか。
「何平といいます」
 張嶷と呼ばれた男は頷き、何平を中へと招き入れた。ふと、倉の奥から呻き声が聞こえて何平はそちらに目をやった。頭頂を晒した大男が、片腕を押さえて部屋の隅でうずくまっていた。
「おう、あいつはな」
 何平が訊く前に、張嶷は口を開いた。
「俺が昼寝をしていたら上から覆いかぶさって犯そうとしてきやがったんだ。だから腕を折ってやった。前線で軍機違反を犯してこっちに回されたらしいのだが、向こうの軍内でも同じようなことをやったんだろうな」
 張嶷は二つの椀に瓶に入った水を入れて何平に差し出した。そして何事もないかのように腰を下ろしたので、何平も呻く男を横目で気にしつつその場に座った。
「軍内には、ああいった馬鹿が少なくないらしい。それも戦に出ることができない者が多い兵糧庫には特にな。お前も十分に気をつけることだ」
「貴様、殺してやる」
 腕を折られた男が顔を床にこすりつけながら、犬のように口から涎を垂らしてこちらをすごい形相で睨みつけてきていた。張嶷はその男に冷たい視線を向けた。
「何平といったか。ちょっと待ってな」
 言うと張嶷は寝床の藁を掴んでその男の口へとつっこみ、折れた腕を何度も蹴り飛ばした。何度か蹴るとごめんなさいという声が聞こえてきたが、もうしばらくすると気を失ったのか全く動かなくなった。
「よし、静かになった」
 平然とした顔で張嶷は元の場所に座り直した。
「ところで、お前いくつだ。見たところかなり若いようだが」
「今年で十五になります」
「そうか、なら軍ってのは初めてだろ。いきなりこんな場を見せられて、驚いたかな。まあ兵糧担当の者にも良い奴はいるんだが」
「確かに驚きましたが、いい意味で驚けたと思います。自分の友人は前線に回されてそれを羨ましく思ってましたが、こっちはこっちで楽しそうですね」
「楽しそうだと。お前、若いわりにはなかなか根性座ってるじゃないか」
 いきなり見せられた暴力的な行動とは裏腹に、その喋り方には好意が持てると何平は思った。
「ところで、その友人ってのは山岳民族なのかい?」
「そうですが、どうしてそれを?」
「俺も前線で手柄を立てたかったが、山岳民族じゃないという理由でこっちに回されたんだ。劉備軍は今、山岳戦を得意とする者を躍起になって集めているらしい。お前はどこの出身なんだ?」
「巴西です。父は洛陽という所が生まれなのですが、劉焉が益州に入った時に同じくしてきました。母は山岳民族なので、自分は混血ということになります」
 劉焉とは、劉璋の父である。
「そうか、じゃあお前の親父さんは前線で戦っているだな?」
「父は戦で死にました」
 張嶷は、少し鼻をこすった。
「悪いことを聞いた」
「いいえ、自分がまだ幼かった頃の話です。気にしないで下さい」
 それからしばらく、二人は自分自身のことについて語り合った。従軍するということで何平は緊張していたが、いきなり良い友人ができたようで嬉しかった。
「こいつ捨ててきちゃおうぜ」
 夜になってそう言った張嶷に、何平は笑顔で頷いた。夜の暗がりの中、両手両足を縛った頭頂の禿げた男の足側を何平が持ち、上半身を張嶷が持って林の中へと入った。木の根に躓きそうになる度に、張嶷が大丈夫かと声をかけてきてくれた。月明かりの中で悪戯をしているようで、何平は楽しかった。そして誰にも見つかりそうにない岩の陰に、両手両足を縛ったままその男を置き去りにしてきた。
 次の日、隻腕の老人が見回りに来た時、張嶷が言った。
「例の軍機違反を犯した禿げ野郎は、夜中の内に脱走したようです。人員の補充をお願いします」
「うむ、わかった」
 それだけ言い、老人は立ち去った。
「簡単なものなんですね」
「あの人は元々前線で指揮を執っていた人で、軍機違反を犯す奴をかなり嫌ってるからな」
夕刻になると、補充要員がやってきた。その者は驚くほどに体が小さく、今まで何平が会った誰よりも無口だった。
「歳はいくつだ」
「名前は何という」
 その小さな男は、話しかけても目を逸らすだけで、ろくに答えようとしなかった。不便だからと何平が頼み込むようにして名前を聞くと、句扶(こうふ)、とようやく呟くようにして答えた。
 無口で無愛想ではあるが、与えられた仕事はきちんとこなすので、何平も張嶷も喋らないということ意外には別段不満を感じることはなかった。
 何平が想像していたものよりも、ずっと穏やかな時が流れた。周囲ではたまに喧嘩が起こったが、腕っ節の強い張嶷のおかげで、何平の周りでは喧嘩はほとんど起きなかった。
 句扶は、いつまで経っても無口だった。張嶷はその無口さを半ば諦めていたが、何平は構わず話しかけた。
「そうか、そんなに近くに住んでいたんだ。なら、俺と同郷だな」
 辛抱強く話しかける何平に、句扶はようやく自分の住んでいた村の場所を教えた。何平が微笑みかけると、句扶も少し笑ったような気がした。
「何だ、句扶が喋ったのか」
 大きな声で張嶷が近づいてくると、句扶はまたそっぽを向いて黙りこくってしまい、張嶷は閉口した。

 日が経ちここでの生活に慣れるにつれて、句扶は何平になつきはじめているようだった。
 空いた時間には張嶷はよく昼寝をしていたが、何平は句扶を連れて川辺に行った。
「こうやって、葉に切り込みをいれて、へたの部分をそこに入れるんだ。先を細長くすれば速い船ができるぞ」
 句扶は意外と手先が器用で、何平の言うとおりに葉の船をつくった。浮かべてみると、句扶のつくった船は、朴胡のつくったものに比べると、うんと良く水の上を走った。
「ななかな筋がいいじゃないか、句扶」
 言うと、句扶は照れたように横顔でへへっと笑った。何平は句扶に、割った石と木の枝で小さな手槍のつくり方も教えた。これで川魚をとるのだと手本を見せると、句扶もその小さな体をひょいひょいと身軽に動かし見事に魚をとって見せた。
「すごいじゃないか句扶。とても初めてとは思えない」
 褒めると、また句扶は照れたように笑った。兵糧庫内では決まった者しか火を使ってはいけないという規則があるので、二人はその場で石を囲って火を熾し、魚を焼いた。
 軍内といっても、恐れるべきものは何もないように思えた。目の前で刃がきらめくことがなければ火が襲ってくることもなく、ただ隻腕の老人が言う通りに働いておけばよかった。ちゃんと働けば、飯は食えるし自由時間だってある。それでも張嶷からは、戦中は何があるか分からないから気をつけろ、とは何度も言われていた。
「あ・・・・・・」
 向かい合って焼き魚を貪っていると、句扶が何かに気付いてその方向を指差した。
 振り返ってみると、兵糧庫がある方角から不自然な煙が上がっているのが見えた。その煙はどんどん大きくなり、空が赤みを帯びてきた頃にようやく何平は異変に気付いて腰を上げた。戦中は何があるか分からない。張嶷の言葉が、何平の頭によみがえった。
「句扶、行こう。張嶷さんが」
 それだけ行って、何平は後ろも振り返ることなく駆け出した。
 兵糧庫に近づくにつれて、ものが焼ける臭いが強くなり、人の喚声も聞こえてきた。木と木の間を通り抜け、自分が受け持つ小屋が見えてきた。張嶷は、無事なのか。そう思った時、何平は何かに足を取られてその場に転んだ。足元を見ると、自分の足首を血だらけの手が掴んでいた。何平は驚き、必死にその手を振りほどこうと足を振った。
「いたい、やめろ。俺だ、張嶷だ」
 血まみれではあったが、よく見ると確かに張嶷だった。
「大丈夫ですか。どこを怪我してるんですか」
「馬鹿、静かにしろ。俺はどこも怪我なんかしていない。これは、敵を斬った時の返り血だ」
 言いながら張嶷は、もう一方の手で持っていた血のついた剣を何平に見せた。
「ここに潜んで、やり過ごそうとしていたんだ。あいつらは賊とはいえ、倉庫番である俺達よりかは強いのだ。俺なら一対一で勝てる自信はある。だがまともにやりあえばここの兵は皆殺しだ。ここはもう離れたほうがいい。句扶は、まだ川にいるのか?」
 何平はそこでようやく句扶がいないことに気付いた。ずっと後ろを付いてきているものだとばかり思っていた。
「句扶は逃げたか。この場合は、その方がいい。俺達も、ここから離れるぞ」
 行こうとすると、突然地鳴りが聞こえてきた。何か大きなものが、こちらに近づいてきている。立ち上がろうとしていた何平と張嶷は、もう一度その場に身を伏せた。
 見えてきた。地を鳴り響かすその地鳴りは、たくさんの蹄が駆けてくる音だった。そしてあの時、朴胡と一緒に目にした威風堂々たる張の旗。その先頭には一際大きな馬に乗った虎髭の男が槍を掲げている。
「貴様等、首魁は絶対に逃すんじゃねえぞ。邪魔する者は、皆殺せ」
 虎髭がそう叫ぶと、騎馬の一団は散開した。張の旗の軍が、そこら中に火をつけ荒らし回っていた賊を追い立て、殺していった。
「張嶷さん、行きましょう。行かないと、俺達まで殺されてしまいます」
「すごい、これが劉備軍」
 張嶷は、その軍に魅入っていた。
「張嶷さん」
 体を揺らすと張嶷は我に返り、ようやく体を起こした。
「よし、静かに、ゆっくり行くぞ」
 二人は、林の中を慎重過ぎるほどにゆっくりと後ずさり、ある程度の距離になると全力で駆けてその場を離れた。
 さっきまで魚を焼いて食っていた場所まで、難無く辿り着くことができた。そこでようやく腰を落ち着け、張嶷は川に入って自分の体についた返り血を洗った。
「息を整えておけよ。安全を求めるなら、もっとここから離れておいたほうがいい」
 何平は大きく深呼吸しながら周囲を見渡した。句扶は、どこへ行ってしまったのか。
「俺達の兵糧庫は、恐らくおとりにされたな」
 川沿いを歩いていると、張嶷が言った。
「どういうことですか」
「兵糧庫が襲われてから、軍が救援に来るのが不自然なほどに早かった。山に籠る相手にこちらの兵糧庫の情報を流して誘い出したのだろう」
「そんな、ひどい」
「いいや、何平。これが軍というものだ。お前は父親に憧れて軍にも憧れを持っていると言っていたな。これを受け入れ難いというなら、軍人になるなんてやめておくことだな」
 何平はそれに対して何も言えなかった。心の準備など何もできていない時に、いきなり殺し合いが始まった。初めてのことに、何平は頭の中を整理しきれずにいた。
 しばらく歩いていると、右側の草むらが大きく揺れた。誰か、いる。張嶷は手に持っていた剣をそちらに構えた。すぐにそこから、小さな人影が飛び出てきた。出てきたのは、句扶だった。
「無事だったか」
 何平は、思わず句扶に駆け寄ってその小さな肩に手を置いた。
「この先は、行かない方がいい」
 句扶が小さな声で言った。句扶が喋ったので、張嶷は少し驚いた。
「どうした、句扶。この先に何があるというのだ」
「たくさんの賊が、馬に乗って向こうに駆けて行った。多分、向こうに行っても危ない」
 この先には、この県の首邑がある。賊は兵糧庫と同時に、そちらにも襲撃をかけたのだろう。
 日が中天に差し掛かっていた。優しい風が吹きわたり、葉の茂った木々がさわさわと揺れた。目の前の光景はいつもの日常のそれであり、この地が戦場なのだとはいまいち何平は信じることができなかった。
「何平、句扶、お前らはここに残れ」
「残れって、張嶷さんはどうするんですか」
「俺はこれから戦に加わり、手柄を立ててくる」
 それだけ言うと、まだ何か言おうとする何平を尻目に張嶷は走り出した。
 無茶だ。何平はそう思うと同時に張嶷の後ろを追って走った。今度は、句扶も後ろから付いてきている。
 川沿いを外れ、林の中を駆けた。これから自分もこのまま殺し合いの中に入っていってしまうのか。兵糧番をするというだけでも必死に止めようとした母がこのことを知れば、仰天して気を失ってしまうかもしれない。
 やがて、その首邑が見渡せる丘に出た。眼下では村人の住む家々が焼かれ、賊達が好き放題に暴れ回っている。
「お前ら、来るなと言ったはずだぞ」
 張嶷はそう言ったが、顔は笑っていた。何平も強張る顔で無理やり笑顔をつくって返事をした。
 三人はしばらくそこで様子を見ていた。この殺し合いは、一方的なものだと何平は思った。奇声を上げる賊達は、逃げる者は子供や老人でも虫けらでも潰すように手に持つ槍や戟で殺している。
「どうだ、何平。これが戦だ。俺達はこれからあんな奴等と戦っていかなければいけないんだ」
 意気込んでいる張嶷だったが、その手は震えていた。朴胡もそうだった、と何平は思った。男ならいずれ戦わなくてはいけない。どうせ戦うのなら父が死んでいった戦場で戦いたい。母にそう言って出てきたが、その戦場とは何平が想像していた以上に厳しいものだった。張嶷のような精強な男でも、手を震わせてこの戦場を恐れている。何故、そんな思いをしてまで戦わなくてはいけないのか。この殺し合いに、自分の命まで混ぜることに、意味なんてあるのか。
 しばらくすると、聞き覚えのある蹄の音が聞こえてきた。音の方を見てみると、黒い塊がすごい速さで砂埃を上げて近づいてきていた。張の旗。先頭にはさっき見た一際大きい馬に乗った虎髭の男がいた。
「さすがにこっちの状況もよく見ている」
 張嶷が呟くように言った。
「どうして、あの軍はこっちの状況が分かったのですか」
「軍ってのは、斥候というのを放って常に周囲のことを探っているんだ。その斥候で、こっちの状況を知ったのだろう」
 張の旗が突っ込むと、今度は賊の方が一方的に殺され始めた。武器を捨てて許しを懇願する者でも、容赦なく突き殺していく。賊が潰走を始めるのに時間はかからなかった。
「おい、何平。あれを見ろ」
 十五騎程度の集団がその場を離れようとこちらに向かっているのを張嶷は指差した。その騎馬の集団は、明らかに中心にいる人物を守るようにして動いている。
「あれが首魁に間違いない。俺は、行くぞ」
 張嶷は震える手で剣を握り締めた。身を隠せそうな岩山へと飛び降りてく張嶷に二人は続いた。
「くるぞ。間違いない、この真下だ」
 その集団は、見る見る内に近づいてくる。何平は朴胡と一緒に劉の旗の元に落ちた時のことを思い出した。子竜と呼ばれた大男とその周囲の兵は見ただけで強いと分かった。だが目の前に近づいてくる賊は、武器こそ持っているが劉の旗の兵士程の強さは感じられない。ここで三人で身を潜めていればこれをやり過ごすことはできる。張嶷が出て行こうとしても、それに抱きついて止めればいい。しかしその考えが頭を占める一方で、あいつ等は怖くないと思い込もうとしている自分もいる。怖くないと思い定めたところで、自分に何ができるのか。相手から見れば、自分はもっと怖くない存在ではないか。
「張嶷さん、やっぱりだめだ。こっちは三人しかいないのに、ここから出ていって一体何ができるっていうんです」
 何平は張嶷の腕を掴みながら言った。
「一撃でいい。あの中心にいる者の体に、この剣を突き立ててやればいいんだ」
「でも失敗したら、死にます」
 掴んでいた腕からふっと力が抜け、張嶷はその腕で何平の体を引き寄せ、手を握った。その手は、もう震えてはいなかった。
「何平。世の中にはな、戦ったふりをして満足している馬鹿野郎がたくさんいる。ここで危険に身を晒そうとしている俺も馬鹿野郎なのかもしれない。お前は、どっちの馬鹿野郎がいいと思う?」
 そう言った張嶷は手を放し、剣を大きく振りかぶって岩山から飛び降りた。何平は思わずあっと声を上げた。
 張嶷の剣が、中心にいる人物の胸を貫いた。突然のことでその集団は急に馬を止めることはできず、しばらく進んだところでその半数だけが馬首を巡らした。残りの半数はそのまま駆け逃げて行った。何平も意を決して岩山を降り、張嶷が殺した男が持っていた戟を手にした。
「てめえ、よくもお頭を」
 馬首を巡らした賊の一人がそう言い、こちらに向かってきた。何平は大声を上げ、戟の柄の先を持って大きく振り回した。それだけで、賊は容易に近づくことはできなかった。
「おい、もう行こうぜ。正規軍に追いつかれちまう」
「あの女だけでも取り戻すんだ。こんな餓鬼、すぐに殺してやる」
 言ったその男の頭に何かが飛んできて弾け、落馬した。背後からは、あの蹄の音が近づいてきていた。
「もうだめだ、逃げるぞ」
 落馬した男を残して、賊達はその場から一目散に逃げ去った。残された一人は気を失いかけていたのか、頭を抱えて体を起こそうとした。何平は狂ったような声を上げ、その男の後頭部に持ってた戟を振り下ろした。ぐしゃ、という嫌な音と共に男は崩れた。何平はそれでも動かなくなったその体に、今まで出したこともないような声を上げながら戟を振り下ろし続けた。
「もういい、何平。もうそいつは死んでいる」
 張嶷が何平の体を抑えつけると、ようやく何平は戟を放してその場に座り込んだ。
「やったぞ。俺達の勝ちだ。奴等の話からして、やはりこの男は賊の首魁だったのだ」
 張嶷が斃した男の方を見ると、その傍らに誰か倒れていた。よく見ると、女だった。
「戦利品として持ち帰ろうとしていたのだろうな。おい、大丈夫か」
 張嶷は、その女の頬を軽く叩いた。すぐに女は眼を覚ました。
「触るな、獣共」
 女は強い目で睨みつけながら言った。
「獣共は、俺達が殺した。こいつを見ろ。お前を攫おうとしてた男だが、もう死んでいる。家に帰れるから、もう心配するな」
 張嶷は胸に剣が刺さったまま死んでいるその男の頭を足蹴にしながら言った。女はそれを見ると、気が動転したのかまた気を失ってしまった。
 張の旗を掲げた馬軍が目前まで迫り、ふみ潰されるのではないかと思うくらいに近づいた所で止まった。
「貴様等、何者だ」
 虎髭の大男が、馬上から叫んだ。やはり、賊にはない迫力だと何平は思った。
「宕渠にて兵糧庫の番をしていた者です」
 張嶷が拝伏したので、何平もそれに倣った。隣ではいつの間にか岩山から降りてきていた句扶がいて、同じように拝伏しているつもりなのか足を折って地面にうつ伏せになっていた。
「首魁を討ち取るとは、大義であった。恩賞の沙汰は、ここに残していく者から聞け」
 そう言うと虎髭率いる張の軍は賊が逃げて行った方向に駆けて行った。
 残されたのは、戦場には似つかわしくない、具足姿が浮いているように見える男だった。それでも後ろに三騎の供を連れていることから、何かしらの地位にある男なのだろうと何平は思った。
「ふう、ようやく落ち着けるわ。お主等、よくやってくれた」
 後ろの三騎とは違い、肩で息をしながらその男は言った。
「どうやって討ち取ったのか、詳しく状況を説明してもらおう」
張嶷は岩山を指差しながら、それまでの経緯を話した。
「私は賊がここから去るのなら、必ずこの岩山の下を通ると思ってこの上で待ち構えていました。正規軍がくるとやはり奴等はここを通って逃げようとしましたので、あそこから飛び降り中心にいた男を討ち取ったのです」
「ほう、ここを通ると予測していたのか。それは大したものだ」
「賊は追ってくる正規軍を恐れ、半分はそのまま駆け去り、半分は残りました。その残った賊もこの句扶が礫で一騎を落馬させ、この何平が斃すと一目散に逃げて行きました」
 何平は、そこで初めて何故賊が落馬したのかを知った。
「なるほど、よくやってくれた。首魁を討ち取ったからには、何らかの恩賞を取らせよう」
 張嶷が、いくらか身を乗り出した。
「恩賞は必要ありません。その代わり、私を軍の端に加えさせてもらいたく存じます。そうして頂ければ、さらなる手柄を立ててお見せいたしましょう」
「お前は若いし智勇もあるようだ。そう言ってくれるなら、こちらとしても有難い。後ろの二人も、望みは同じか?」
 言われて、何平ははっと顔を上げた。生まれて初めて、戦らしい戦を見た。そこでは人が簡単に死に、殺していた。そして自分も、殺した。頭の中では分かっていたことだが、実際に目にしたそれは想像していたものとは違っていた。恐怖があり、血があり、死がある。それらは直に触れてみて、初めてどういうものか分かるものだった。戦に出て戦いたい。母にそう言っていた自分が、いくらか恥ずかしく思えてきた。
「村に、私の帰りを待つ母がいます」
 戦は怖かった。しかしこれは逃げではない。何平は自分に言い聞かせた。
「その母に、少しでも楽な生活をさせてやることができればと思います」
「親孝行とは、感心だな。もう一人はどうなのだ」
 句扶はずっと同じ姿勢で這いつくばっていた。
「この者にも、自分と同じものをいただければ」
 何平は慌てて言った。
「よかろう。では私は他に仕事があるので、ここを離れるぞ。後で首邑の役場に来い。私の名は、法正。門番にはその名前を出してくれればよい」
「はい、法正様」
 その場を後にする法正の背中に、張嶷が元気よく言った。
 賊、張の旗、飛び散る血肉。様々なことが一度に何平の目の前を通り過ぎて行った。初めて人を殺した。それも自分でも驚くくらいに錯乱しながら、殺した。さっきまで言葉を発していた者が、今では何ももの言わぬ肉の塊となっている。そう思っただけで、また足の先から震えがくる。
「有難うございました」
 気を失っていた女がいつの間にか目を覚ましていて、立ち上がって三人に対して頭を下げた。
「あんた、なかなか行儀がいいんだな」
 張嶷がからかうように言った。
「私は、ここの県令の娘です。もっとも、父は賊がここに向かっていることを知って私と母を置いて逃げてしまいましたが・・・・・・」
 女は泣きそうな顔を堪えていた。この女の母は殺されてしまったのかもしれない、と何平は思った。
「そうか、それで賊はあんたのことを人質にしようとしていたのか」
「恥ずかしい話ですが、あの父の娘である私に、人質の価値などなかったでしょう」
 父が平気で自分の娘を捨てる。これも戦なのか。
 三人はその女をつれて、首邑の役場に足を向けた。
「すごいですね、張嶷さん。あそこに賊が通ることが分かっていたなんて。俺はそんなこと、全く考えていませんでした」
 何平がそう言うと、張嶷は大声で笑い出した。
「いいや。俺もそんなことは全然考えてはいなかった。賊があそこを通ったのは、全くの偶然だ」
「それじゃあ、さっきの話は」
「ものは言いようということだ。要するに、ああいう言い方をして自分のことを売り込んだってことよ。このことは、あの法正って人には内緒だぞ」
「な、なるほど」
 そして何平は、考えこんでしまった。
「そんなに難しく考えることはないよ、何平」
 張嶷がまた笑いだしたので、何平もつられて笑った。


2.山岳兵士

 巴西での戦が終わってから、三か月が過ぎた。周辺の賊はすっかり掃討され、兵糧番の役を無事に終えた何平は自分の村へと戻ってきていた。
 句扶も一緒だった。句扶には帰る所がないというのだ。それが何故か句扶は喋ろうとはしなかったし、何平も聞こうとはしなかった。帰るところがないとは、この戦続きの世では珍しいことではない。そしてその理由には、必ずと言っていいほど悲しい過去がつきまとっている。前に句扶と川で体を洗っている時、何平は句扶の体につている夥しい数の傷痕を目にしてぎょっとした。それが恐らく帰る場所がない理由なのだと、何平は漠然と思っていた。
 家には、二人分の手柄である財物と、桶二つ分の太平百銭が届けられてきた。使い道がないからと句扶は自分が与えられた財物も銭も何平に渡すと言ってきたが、何平は自分の分ですら持て余していた。母は、父ですらこんなに財物を持ち帰ったことがないと喜んでいた。その手柄を立てた過程を話すと母は表情を曇らせて心配の言葉をかけてくれたが、それはどこか空々しい感じがした。それでも財物を見て喜んでいる母の姿を見ていると、何平も嬉しくなった。
 同じ村に住む者達が自分を見る目が変わっていることに何平は気付いていた。句扶を隣に歩いていると、必ずどこかから視線を感じた。これが、手柄を立てるということか。張嶷は取り立てられた後にそこでも手柄を立て、それを劉備から直々に称賛されてさらなる出世をしたという。自分もあの時、張嶷について行っていればさらなる手柄を立てる機会に恵まれることがあったのだろうか、とも思う。だが村には母が自分の帰りを待ってくれているのだ。何平は自分にそう言い聞かせた。
 ある日、句扶と川魚を獲って家に帰ると、見知らぬ中年の女がいた。その女は母のことを主人と呼び、母はその女を使用人として雇ったと言っていた。確かに生活は楽になった。老いて一日のほとんどを寝ている祖母も、句扶のことを実の孫のようにかわいがってくれている。食べるものも良くなったし、着飾るものも変わった。何平はそのことに、漠然とした違和感を覚えていた。そのことを母に言うと、それは何平が立てた手柄のおかげであって、この新しい生活に馴染めなくてもすぐに慣れると言われた。同じ慣れた生活なら、以前のままでもいいじゃないかと何平は思ったが、それを言うと母の機嫌を損ねてしまうような気がしたので口には出さなかった。
 年が明けると、北の漢中に緊張が走った。朴胡の話によると、もうすぐここら一帯で大きな戦があるらしい。
「曹操の軍が漢中から、もうすぐこの巴西にまで攻め込んでくるらしい。賊の討伐で手柄を上げたお前も、前線で戦ってみないかと隊長が言っているのだが、どうだ」
 考えさせてくれ、と表面上は冷静を装って答えた何平だったが、体の中では興奮に似た気持ちの昂りが渦巻いていた。初めて人を殺した。あれから、突っ伏した男が見る間に赤く染まっていく夢をしばしば見た。初めてその夢を見たのは、その男を殺した夜だった。うなされて目を覚ました何平の体は燃えるように熱くなっていた。その熱を消そうと瓶の水を腹一杯になるまで飲んだが、それはどうしても消えなかった。日が昇るまで続いたその熱がようやく引いてくると、体の中で何かが変わった。その変化は、朴胡と剣の稽古をしている時、特に強く感じた。何故、朴胡は手を抜くのか。そう思ったが、前の戦から何平は人が違ったように強くなったと朴胡は言っていた。また、戦に出てみたい。戦に出て、手柄を立てたい。これを母に言ったら何と言われるだろうか。前に立てた手柄で、母には充分な程に楽をさせてあげている。あとは、時に兵糧庫の番をしながらこの村で平穏に暮らすという選択もあるのだ。
 母に朴胡からの誘いのことを相談すると、やはり反対にあったがそれは前ほど強固なものではなかった。もっと強く反対されれば何平の気持ちも変わっていたかもしれないが、母のその曖昧な態度で何平はさらに迷ってしまった。おそらく、また手柄を立てて財物を届けてもらいたいと考えているのだろう、とは分かっていた。富に心を奪われている母を見ても、それは悪いことだとは思わなかった。むしろ喜んでる母を見ていると、何平も嬉しくなってくる。
「俺も、朴胡と同じ部隊に入りたい」
 朴胡を前にしてそう言うと、何平の心は憑物が落ちたように軽くなった。母にそれを伝えると、悲しそうな顔をして見せたが、やはりそれはどこか空々しいように感じた。
 朴胡が所属する部隊は杜濩という口髭を蓄えた老練そうな男を隊長とした、山岳民族のみで構成された部隊だ。戦場では、山の中に潜んで敵の後方を攪乱したり、伏兵となって予測のできない所から姿を現わしたりする兵である。
 調練は厳しかったが、思っていた程でもなかった。朴胡といつも山の中で遊んでいたことが役に立っている、と何平は思った。

 漢中と巴西を隔てる山の手前で劉備軍と曹操軍がぶつかった。そこが劉備軍にとっていい位置だということは、軍に入ったばかりの何平にも分かった。そこなら曹操軍は、進むにしろ退くにしろ山の中へ入らなければいけないことになる。つまり、山岳戦の部隊を持つ劉備軍に圧倒的地の利があることになるのだ。
 出撃。隊長である杜濩が腕を振って合図した。山岳戦の部隊はその性質から、例えば虎髭の将軍がそうしていたように隊長が大声を張り上げて指揮を執るということがない。その無言の合図は近くの小隊長に伝わり、後ろまで伝わっていく。全軍で二百人弱の隊だった。
 隣には、朴胡がいる。句扶も何平に付いてきたがったが、まだ体が小さいということで兵糧番へと回された。あと一年したらこっちの隊に入れてやると、気落ちする句扶にそう声をかけた朴胡だったが、やはり句扶は無言のままだった。
 およそ半日程、皆無言で山の中を進み、ある所まで来ると休息を取った。
「何平、この戦は誰が作戦を立てているか知ってるか?」
 朴胡が話しかけてきた。
「いや、知らないけど」
「法正様、という人だ。前にお前が手柄を立てた時に法正っていう人に報告したって言ってたよな」
「そうか、あの人は頭で戦う人だったんだな」
 法正という人は虎髭の将軍が率いる軍にいたが、どうも似つかわしくなかったと思っていた。これで合点がいく。
「噂で聞いたんだが、頭が人の三倍も四倍もあるって話、本当なのか?」
「まさか、見た目は至って普通だったよ」
 二人にしか聞こえない声で喋っていた。それでも、近くにいた年長の兵に、しっ、と注意されて二人は口を噤んだ。
 きん、きん、きん、と金属が三回打たれる音が聞こえた。山の中で、自分が仲間だと伝えるための合図だ。杜濩もそれに対して同じ合図を送った。何もないと思っていた所から、枝と緑が蠢き、何人かが出てきた。姿を現わしたその者と杜濩が少しの会話を済ませた。
「いくぞ」
 と、また腕の合図だけで伝えてきた。
 出発から少し行くと、何平は後ろを振り返ってみた。何の変哲もない、木々の中だった。どうやってあの場所で斥候と落ち合うことができたのか。あとでまた朴胡に聞いてみようと思った。
 行軍が幾らか速くなった。恐らくこのまま敵の背後に回り、山の中へと退いてきた曹操軍を襲おうというのだろう。そう思うと、胸が高まってきた。また大きな手柄を立てて、母を喜ばせてやることができる。何平は腰の両側につけている短い剣がそこにあることを、何度も触って確かめた。山の中での戦いは、槍や戟ではその長さが邪魔になる。前は戟を振り回しているだけで敵を遠巻きにすることができたが、今度は自分から敵の懐に飛び込んでいかなければ手柄を立てられない。矢が射かけられてきたら、木を盾にすれば簡単に防げると習った。その二つを何平は何度も頭の中で想定してみた。体を動かさずとも、そういう訓練もできるのだと朴胡に教わったからだ。
 目的地に着いた時、もうすっかり辺りは暗くなっていた。月明かりが木々に遮られようとも、この部隊は夜目が利く。元々、山岳民族の眼は暗闇に強いのだが、それは訓練によってさらに強くすることができる。だから夜を徹して山中を通り、敵の後ろを取るということもできる。
 全軍、その場で息を殺して伏せた。目の前には、山中の街道。所々に馬糞が落ちている。曹操軍がこの道を使って益州へ攻め込んだ証拠だ。何も聞かされてはいないが、もうすぐ敵がこの道を引き返してくるということなのだろう。
ひたすらに待った。夏の山中は木々が暑さを和らげてくれるとはいえ、何平の顎からは汗が滴り落ちていた。水が欲しくなろうが、蚊に刺されようが動いてはいけない。伏せている時はそれがどんなに長くなろうと、自分を木だと思い定めろと何度も言われた。ただ、緊張感だけは体の中に留めておいた。気を抜けば、いざ敵が来た時にあっさり殺されてしまうのだ。もっとも今の何平には、この初陣の緊張感を忘れろと言われた方が難しかった。
待っている時間は永遠とも思える程に長く、何刻経ったのかも分からなくなってきた。それでもその場にいる皆、一言も発せずに不動のまま待っていた。動くものがなさ過ぎて時に、もうここには自分しかいないのではないかという錯覚に陥りそうになり、目だけを動かして隣に朴胡がいることを何度も確かめた。
 夜空が白み始めた頃、遠くから馬の嘶きが聞こえた。来た。そう思っても、やはり体を動かしてはならない。
 見えた。曹の旗。細い道を三列で進んできている。合図は、隊長が踏み込む一歩目の足音。それが聞こえれば全軍が目の前の敵に向かって襲いかかる。何平は全神経を耳に集中させ、全身に気を漲らせた。しばらく兵が通り過ぎてくのを見送ると、きらびやかな輿がやってくるのが見えた。あそこに、大将首がある。あれを取れば、また母は喜んでくれるのだ。輿は、見る間に近づいてきた。周囲の護衛は思ったより少なかった。これならやれる。何平は頭の中で、どうやってあそこへ辿り着き、どうやって逃げるか、思いつく限りのことを想定した。
 ざっ、という足音。それに弾き出されたかのように何平は短い剣を持って突っ込んだ。硫黄の入った玉が投げ込まれ、火柱が上がり敵は混乱し始めた。一番浮足立っていると見えた兵の懐に飛び込み、左手にあった剣を喉に突き立てた。欲しいのは、この首ではない。矢が飛んでこないかと周りを見渡したが、混戦になり始めたのでその心配はないようだ。冷静じゃないか。そう口の中で呟いた。突き出された槍をかわし、今度は右手の剣で首を払った。噴き出したものが、一枚の赤い帯のように見えた。目の前の輿。これを取りに、俺はここまで来たのだ。思わず笑みが浮かんでくる。
輿に取り付き、垂れ幕を上げた。上げて目を見開いた。そこには、誰も乗ってはいなかった。罠だ。何平は、自分は、体の中の血が逆流していくのを感じた。
「いません」
 叫んだ。杜濩が、いつの間にか隣にいた。
「退却!」
 大きな声の号令だった。それを聞いて、何平は急に怖くなってきた。手柄を立てに来たが、逆にここで死んでしまうのか。
 その場を離れようと、退路を探した。しかし予め何平の頭の中に用意してあった退路は、既に敵が塞いでいた。
 どうする。どうする。何平は息を荒くさせながら、何度も無意味に剣の柄を握り直した。
「降伏せよ」
 大きな声が山中に響いた。その方を見ていると、一目見ただけで精強だと分かる兵に守られた男が馬上にあった。この男は、怖い。何平は直感的にそう思った。その男の歳は前に見た劉備と同じくらいかと思えたが、それは全く別の生き物のように見えた。
「我々は、お前等と敵対するつもりはない。こちらに味方すると言うなら、命は助けよう」
 それを聞いた杜濩が、武器を捨ててその場に座った。周りの仲間達もそれを見て抵抗する気を失くし、何平も同じように両手の剣を捨てて座った。
 縄がかけられ、そのまま歩かされた。負けたのだ。どうして、こんなことになってしまったのか。朴胡の顔を見ると、声こそ開けてはいないがその目からは大粒の涙が零れていた。自分の眼の奥も熱くなってくるのを感じた。もうこのまま、故郷には帰れないのだろうか。前を見て歩け、と縄を持つ兵に蹴飛ばされたが、それが痛いのかどうかも分からなかった。
 日が暮れかかった頃、ようやく行軍が停止した。前日からずっと休息がなかったので、さすがに疲れてその場にへたりこんだ。
 しばらくすると捕えられた全員が引き出され、降伏しろと叫んでいた男の前に並ばされた。周囲には屈強そうな兵が何人も並んだ。
「こんばんは。曹操です」
 普通の言葉だったが、それで仲間の間に戦慄が走ったのがはっきりと分かった。
「丞相は、山中で戦える者を欲しておられる。ここで丞相に忠誠を誓えるなら、それなりに遇してやろうぞ」
 曹操の隣にいる、将軍らしい風貌の男が言った。
「お前と、お前と、お前」
 不意に、曹操が持っていた棒で三人を指した。その三人が、前に出された。
「後方で見ていたが、お前等三人は大した働きをしていなかったな。自分の命を惜しんでいたように見えたんだが、どうだ」
 言われた三人は、何か言おうとしたが、何も言葉は出てこなかった。
「斬れ」
 曹操がそう言うと三人は跪かされ、兵が剣を振り上げた。
「お待ちください。命は助けるとおっしゃっていたはずでは」
 内の一人が振り絞るように言った。
「心配するな、他の者は殺さん。ただ使えん者を生かしておくほど、俺は甘くない」
 剣が振り下ろされ、三人の首が飛んだ。曹操の表情は、少しも動いていなかった。
「どうだ、杜濩。俺のために働けるか?」
「・・・・・・はい、誓えます」
 部下を殺された杜濩は、俯きながら奥歯も噛み合わぬ声で答えた。
「声が小さいな」
 低い、腹の底から出された声だった。一歩間違えば、ここの全員の首が飛ぶ。そんな声だ。それは自分達だけでなく、曹操軍の兵まで緊張させている。
「曹操様に、忠誠を誓います!」
 その声は、震えていた。
「よろしい」
 それだけ言い残すと、そのまま立ち去って行った。立ち去り際に、一瞬目が合った。その時、曹操の顔はにやりと笑ったような気がした。
 縄を解かれ、兵糧と水を与えられた。二日ぶりの水は、口に入れると全身に染みわたっていくようだった。兵糧も、腹の中から疲れた体を温めてくれる。情けない。そう思った。負けて捕らえられというのに、それだけのことで心が安堵してしまう。
 食べ終わると、兵の一人に呼ばれた。言われるがままに連れて行かれ、着いた所は一番警固だと見える幕舎だった。
「中で、丞相がお待ちだ」
 それを聞いて仰天した。あの人が、俺に何の用があるというのだ。さっき曹操と目が合った時、こちらを見てにやりと笑った。まさか、男色では。初めて張嶷と会った時のことが、何平の頭によみがえった。
「よいか。丞相を前にしたら、自らを名乗ってひれ伏すんだ」
 案内の兵にそう耳打ちされ、幕舎の中へと通された。中は特に華美というわけではなく、意外と質素だった。そして言われた通りにひれ伏しながら名乗った。
「何平か。俺は曹操だ」
 曹操は寝台に寝転びながら、女に頭を揉ませていた。
「よし、その辺でいいぞ。ちょっと二人で話したいから、お前等出てろ」
「しかし、丞相」
 さっきも曹操の近くにいた、将軍らしき男だった。
「心配するな。おい、何平。お前、俺のことをここで殺せると思うか?」
 そう言われ、反射的に首を振った。恐れで、声は出てこなかった。
「ほらな、許褚(きょちょ)。大丈夫だからちょっと出てろって」
 そう言われて、許楮と呼ばれた男は女と静かに出て行った。
「何平」
 呼ばれて、何平は全身を強張らせた。
「そう硬くなることはない。あの奇襲でのお前の働き、見事であった」
 意外なことを言われ、何平ははっとして顔を上げた。曹操の顔は不敵に笑っていて、褒められたのだと思ってつい笑みを漏らした。
「褒められて嬉しいか、何平。それでいいんだ。男の子ってのは、そうでなくちゃな。歳はいくつだ」
「十五です」
「若いな。劉備軍には、そんなに人がいないと言うのか」
「いえ、本当なら兵糧の方に回されていたのですが、手柄を立てたかったのです」
「なぜ、手柄を立てたい」
「故郷の母が喜んでくれます」
 曹操が、じっと見つめてきた。何平は曹操の顔を見ながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お前は、我が軍に組み入れられた。もう故郷には帰ることができないかもしれんぞ。それでも、俺のために働けると言えるか」
 何と答えればいいか分からなかった。故郷には帰りたいが、そう答えるわけにはかない。この人は平気で人の首を飛ばすのだ。しかし適当な答えが見つからず、じっと見つめてくる曹操に対して顔を俯かせた。
「帰りたいのだな」
「はい」
「よい、何平。故郷に帰りたいと思うのは、人として当然のことだ。俺は、そんな当然のことを平気で誤魔化そうとする奴が一番嫌いだ」
 俺に嫌われていれば殺されていたぞ。そう言われたようで、何平は下唇を噛みしめ背筋を伸ばした。
「戦は、これで何度目だ」
「二度目ですが、前線で戦うのは初めてでした」
「輿に向かって一直線に走った貴様の姿、気に入った。それも初陣であの働きとは、大したものだ」
 曹操が笑いかけてくるので、何平も強張る顔で笑った。
「俺は、山の中で戦える軍が欲しい。そういう軍がなければ、益州の攻略は難しい。これから何平には洛陽へと行ってもらい、山岳戦ができる軍をつくり、率いてもらいたい。どうだ、できるか?」
「やれと言われれば、やります。しかし何故それが自分で、杜濩様ではないのでしょうか」
「もちろん、あの者にも働いてもらう。だが貴様の方が数段に若い。若いとは、強さなのだ。どうだ、やるのかやらんのか」
「やれぬとは言えません。だから、やります」
「良い答えだ。耳触りだけが良い言葉を吐く輩より、よっぽど頼もしい」
 曹操が外に声をかけると、さっきの男が入ってきた。そして代わりに、自分が外へと出た。
怖い男であるというのは、間違いない。しかし、嫌な男だったとは思わなかった。故郷に帰りたいという気持ちも、否定されなかった。自分はこれから洛陽へと連れて行かれる。洛陽といえば、父の故郷だ。巴西に帰ることはできなさそうで母のことが心配だったが、父の故郷へ行けるというのは嬉しいことだった。仲間の三人は殺されたが、自分はこうしてまだ生きている。それでいいのだ、と何平は自分に言い聞かせた。

 門をくぐる時、二匹の大きな巨像がこちらを睨んでいた。ここには何平が生まれる前は帝が住んでいた街だと聞いていたが、思っていた程の豪華さはなかった。ここに来る途中によった長安という街の方が幾らか大きかった。ただ、人は多い。
 与えられた寝床は簡素なもので、それは宕渠の兵糧庫にあったそれを思い出させた。
 張嶷は、今頃何をしているのだろうか。自分は手柄を立てられなかったうえ、敵に投降してしまっている。母と句扶のことも気になった。そんなことはいくら考えても仕方のないことだ。分かっていても、気付けば頭の中にはそのことばかりが思い浮かんでくる。
 曹操軍に投降した山岳民族の部隊百名弱は、三つに分けられてその下に洛陽の新兵を七十人置かれた。この新兵達を、山の中で戦える部隊に育てなければいけない。何平は杜濩とも朴胡とも違う部隊に配属されて隊長とされ、曹操に隊を育てろと言われたが周りの新兵を除く山岳兵は全て自分より習熟した兵だ。ここで、どうやって自分の力を奮えというのだ。
 場外に、与えられた兵百人を整列させて、その前に何平は立った。
「貴様等の隊長となった、何平だ」
 こういう口調で喋るのは、初めてだった。杜濩にそうしろと言われたのだ。同じく連れてこられた山岳民族はこれに嫌な顔をすることなく、むしろまだ若い何平のことを心配してくれたが、新兵達の中には不満の表情を露骨に示してくる者もいる。初日の調練は、ただひたすらに駆けさせた。やはり洛陽の新兵は、山岳民族程に駆けることができなかった。それはこれから鍛えていけばいいことなのだが、中には明らかにやる気もなく走っているふりをしている者もいる。
「杜濩様。俺には自信がありません」
 初の調練が終わると、隊長格の三人は集まり、夕食をとりながら今後のことについて話し合った。
「俺の部隊にも似たような者はいた。大事なことは、不満をかかえる者達の中心となる人物を見つけ出すことだ。そいつを皆の前で潰してやれば、静かになる。実際に今日の俺は、そう見えた者を三人打ち据えた。これで新兵はぐっと引きしまる」
 言ったのは、もう一人の隊長である袁約だ。
 特に反抗的な者には、目をつけていた。帳簿を確認すると、その者の名は王双と書かれてあった。体は大きく自分の倍はあろうかという男だ。あの男を、自分が打ち据えることができるのか。
「逆に、自分が打ち据えられてしまったら」
「死だな」
 何平がまだいい終わらぬ内に、杜濩が言った。
「実際に命を落とすことはないかもしれんが、それは男としての死を意味する。それ以上隊長としてやっていけないのはもちろん、一兵卒に落ちたとしてもその汚辱が消えることはない。しかし何平、それが軍を率いるということだ。百名の命を預かるということは、決して甘いことではない」
 それ以上、杜濩は何も言わなかった。横から袁約が色々と言っていたが、その言葉は何平の頭には入らず、空返事をするだけだった。軍をまとめることができなければ、男としての死。もう引き返すことはできない。どうすれば自分は隊長としてやっていくことができるのか。頭を占めていることは、それだけだった。
 自分の寝床へ帰ると、何平は膝を抱えてそこに顔を埋めた。なぜ曹操はまだ十五の自分を隊長に任命したのか。若いからいい、と言っていたが、若いからこそ経験が少ない。だからこそ、侮られる。袁約は何人かを打ちのめしたと言っていたが、杜濩の部隊ではそういうことはなかったという。それも、杜濩の経験の深さがそうさせているのだろう。自分には経験もないし、袁約や王双のような大きな体もない。
 相手になく、自分にあるもの。そこまで考えるとふと何平はあることに気付き、気付くとすぐに腰を上げて外に出た。
 王双の小屋。それは名を調べた時に同じくして調べていた。夜の闇に助けを借りて人目のつかない道を行き、王双の小屋まで辿り着いた。中から何人かの声が聞こえる。どうやら、博打をしているようだ。何平は壁の陰に隠れてじっと中の様子を窺った。
「ちょっと小便してくるわ」
 野太い、王双の声が聞こえた。
 何平は足音を消して小屋の勝手口へと素早く回った。出てきた王双の背後に取り付き、口を押さえて手に持つ小枝で王双の首をすっとなぞった。首を切られたと勘違いした王双が息を飲むと、喉のからおかしな音が出た。何平はその体を力一杯部屋の中へと投げ入れた。
「誰だてめえ」
 王双は叫び、中にいた二人は目を丸くしてこちらを見ていた。
「隊長に向かって、てめえとはなんだ」
 腹の奥に力を籠めて言った。
「調練中、何か言いたそうな顔をしていたから、聞きに来てやったのだ。男なら女々しい態度でものを言わず、自分の口ではっきりと言ったらどうだ」
 王双は怒りを満面に出しながら立ち上がった。
「なら言ってやろう。お前のような子供に、何ができるというのだ。命を懸けた戦場に行くのなら、有能な者の下でと考えるのは当然のことだろう」
 二人は、しばらく睨み合った。後ろの二人は、固唾を飲んでその睨み合いを見ている。
「出ろ」
 何平は短く言った。勝てる、勝てると心の中で自分に言い聞かせた。それは戦での殺し合いとはまた違った怖さだった。立てかけてあった調練用の剣を手にすると、王双もそれに続いた。外にほとんど光はなかった。夜目が利く何平とは違い、王双の眼では上手く距離を測ることができないはずだ。
「どこからでもかかってこい」
 剣を構えて言った。
 王双の大きな体が向かってきた。だがその振られた剣は、半歩下がるだけで何平の体にはかすりもしなかった。空振ったところに、素早く打ち込んだ。
「これでお前は、二度死んだことになる」
 それでも王双は顔を赤くさせて力まかせに打ち込んできた。数撃かわすもあまりの勢いにかわしきれず、剣で受けるとその一撃は重く、何平の動きが一瞬鈍った。鈍った何平の剣を、王双が掴んだ。
「貴様」
 何平は自分の頭に血が昇っていくのを感じた。そして掴まれた剣から手を放し、その右拳を王双の顔に叩き込んだ。後ろによろめいた王双も両手の剣を捨て、何平に殴りかかった。かわせる。そう思ったが、かわさなかった。一発殴ったのだ。その分、殴り返されてもいいと思った。そしてまた殴り返した。殴ったその顔が、にやりと笑ったような気がした。殴り返してくる王双の拳は重かったが、何平は踏ん張って耐えた。自分の顔も、気付けば何故か笑っているようだった。
「何をしている」
 街の衛兵に見つかり、止めに入られた。そして駆け付けた四人の衛兵に連れて行かれそうになった時、どこからともなく杜濩が現れ、杜濩が何かを渡すと衛兵達は大人しく帰って行った。何平は杜濩に何かを言おうとしたが、杜濩は二人に笑みを向けただけでその場を去った。
 静かな夜に、何平と王双の二人だけが取り残されたようだった。
「やるではないか、隊長殿」
 王双が何平の肩を叩きながら言った。見ると王双の右目には青痣ができていて、思わず吹き出しそうになった。
「お前の拳、なかなか効いたぞ」
 喋ってみて何平は口の中が少し切れていることに気付き、その場に唾と血が混じったものを吐き出した。
「言いたいことは、全て言い切ったか」
「全て言い切った。言い切ったうえに、二度も殺された。三個目の命は、大人しく隊長殿に預けてみることにしよう」
 終わってみれば、何ということはなかった。言いたいことも言えず、分かりあえることなどないのだ。男と男なら、その言い合いが拳を交わすことであってもいいのだ。
 翌日、部下全員を集めるとまだ反抗的な眼をしている者が何人かいたが、王双が真面目に調練に打ち込み始めるとその目は少しずつ減っていき、数日経った頃には無くなっていた。反抗的な者等に王双が何かしたのかもしれない。そう思ったが、それを口に出して聞くことはなかった。

 何平が受け持つ隊は、日を重ねる毎に精強になっていった。中にはこの隊に向かないと思える者もちらほらといて、何平はその者達には特に厳しい調練を課した。調練にすらついてこられない者は、戦場では最初に死ぬ。それだけならまだしも、他の者の足を引っ張ることすらある。隊長となった何平に、口癖のようにして杜濩が教えたことだ。
 山岳戦をやる隊は、他の軍がやるような調練の他に、腰を落として歩くこごみ歩きや、森の中に潜む訓練として長い時間を動かずに過ごすということをする。新兵は特にこごみ歩きの調練を嫌っているようだった。半刻も中腰でいれば、次の日は太ももがぱんぱんになる。だがこれは、毎日やっていればいずれは慣れてくるものだった。問題は、動きを止めておく調練だ。これには向き不向きがあるらしく、四刻の間動いてはならないところを、二刻も過ぎると気が触れたようになる者がいた。王双も、この隊に向かない兵の一人だった。こごみ歩きもよくやるし武器の扱いも上手かったが、動きを止めておくことができない。そんなことでは森の中ですぐに見つかってしまうと何度も言ったが、二刻も動かずにいると体の中でたくさんの虫が蠢いているような感覚に襲われてくるという。
調練中の何平は体を止めておくことができない王双をよく棒で打ったが、調練が終わると二人は一緒に飯を食うことが多かった。王双は時に文句を垂れながらも、隊長である何平の言葉によく従っていた。
三か月が経った頃、曹操が調練中の軍の見回りにやってきた。軍営の中は、歩兵の営舎にも騎馬隊の営舎にも緊張が走っているようだったが、何平は気にしなかった。誰が見回りに来たからといって、いつも通りの調練をしておかなければ意味がない。曹操が何平の陣営に来た時は、動かずの調練をしていた。肌に寒さが答える時期になってきた。それでもいくら体が冷えようと動くことは許されない。始めはそれを遠くから眺めているだけの曹操だったが、やがて石像のように並んでいる兵の方に近づいてきた。それに気付いた兵の何人かが、動かずの姿勢を解いて曹操の方へと平伏した。
「何をしている。調練中だぞ」
何平は手にしていた棒で、その兵達を打った。そして元の姿勢に戻ったことを確認し、自らも元の場所に戻って動きを止めた。曹操はしばらくそれを見つめていて、静かにその場を去って行った。
「隊長殿、今日のことはさすがにまずくないか」
一緒に夕餉を囲んでいた王双が言った。
「何のことだ」
「何のことだって、分かってんだろう。曹操様に平伏した奴等のことを打ち据えた時のことだよ」
「戦の最中に、自軍の大将が来たからといって平伏する馬鹿がどこにいる。そんなことをしていれば、敵から笑われてしまうぞ」
「調練中だったじゃないか」
「調練中も、戦中も同じことだ」
 そんな話をしていると、兵が一人やってきた。曹操が自分のことを呼んでいるらしい。
「ほら、言わんこっちゃない」
 王双が蒼ざめた顔で言った。
「大丈夫だよ」
そう言ったが、全く不安がないというわけではなかった。自分に与えられた使命を果たしていただけだが、例えばかつて帝が住んでいたこの洛陽の地には自分の知らない仕来たりがあり、それを知らずの内に破っていて処断されるというのなら、それは自分に運がなかったということだ。知らないことまで気にしていれば、何もできやしないのだ。
「なかなか面白かったぞ、何平。あのような調練は初めて見た」
 面と向かった曹操は、上機嫌のようだった。今度は隣に許褚という者を立たせたままだった。許褚はいつも曹操の側にいて、その身辺を護衛している。その体は具足から溢れんばかりの筋肉が隆々としていた。
「森の中では、先に敵を見つけた方が圧倒的に有利になります。その先を取るためには、我々は森の中で木にならなければいけません」
「木になるか。さすがは山賊民族、我々に思いもつかないことをする。俺を討ち取ろうとしていた時は、どれくらいの時を動かずに待っていたのだ?」
「およそ、十刻程」
「それはすごい。しかしそれは、誰にでもできことなのかな?」
 さすがによく見ている、と何平は思った。
「耐えられない者も中にはいます。そういった者は、原野での戦いに回した方がよろしいかと」
「誰が意見しろと言った」
 曹操の隣から、低い声が発せられた。
「構わんよ、許褚。こいつはよくやってくれている」
 許楮と呼ばれている男が、無表情で一礼した。
「軍の再編成を考えている。杜濩と袁約の二人は漢中へと送る。その時に、お前の隊から実戦に使えそうな兵を引き抜いて連れて行かせる。逆に、まだ調練が足りぬと思える兵は洛陽に残り、お前の下で調練をさせる。その時に、新たしく徴兵されてきた者も少し加える」
「先ほど言っていた、山岳戦に不向きな者達は?」
「斬れ」
 曹操は、塩でも取ってくれと頼むかのような顔で言った。
「しかし、曹操様」
「情は、許さん」
 曹操の顔は厳しいものとなった。斬れと言われて、王双の顔が浮かんできた。動きを止めることができないからといって、あいつを斬ることができるのか。
「曹操様、恐れながら」
 言うと、傍らから許褚が睨みつけてきているのを感じた。何平は一つ大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。
「なんだ」
「山岳戦ができる部隊と連携できる部隊を作らせてもらえないでしょうか。これは敵に姿を見せない山岳部隊とは違い、姿を見せてもいい戦い方をする隊です。それら二隊があれば連携が取れ、戦場での戦術はそれだけ増えることになるでしょう」
「ほう、そんなことも可能か」
「山岳戦の隊とは、単体では力の弱々しい隊です。山中で味方の援護をしたり敵を欺いたりする時に、この隊は十二分に力を発揮することができます。曹操様には、それがよくお分かりのはずです」
「確かに、山の中で孤立していたお前等は、少し裏をかくだけで簡単に脆くなった」
「予め、山岳戦の隊と呼応する調練を積んだ隊を作っておくのです。その隊を構成する兵は、山岳戦部隊のことをよく知っておく必要があります。この二隊ができれば、益州を攻める時に必ずお役に立ってみせることができます」
「面白い、そこまで言うのならやってみろ。しかし、もう杜濩も袁約も洛陽からはいなくなるのだぞ」
「もちろん、分かっております。それが一人できなければ、首が飛ぶのだろうということも分かっております」
 曹操の眼が、じっとこちらを見つめてきている。さっきとは違い、それは優しさと好奇心とが混ざったような眼だ。
「俺に平伏してきた兵が、お前の隊の中に何人かいたな」
唐突に話を替えられ、何平の頭は一瞬混乱した。
「ほら、お前がそいつ等のことを打ち据えていただろう」
「はい、いたしました」
 はっと思い出し、何平は俯いた。
「そう暗い顔をすることはない。調練中だったのだから、あれはあれで良いのだ」
「恐れ入ります」
「袁約などは、調練を投げ出して自分から平伏してきやがったから蹴り飛ばしてやったわ。しかも、どうして自分は蹴られたのか分らないとう顔をしてやがった。それで洛陽に残すのはお前だと決めたのだ」
 曹操の老いた手が頭上まで伸びてきて、ぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でられた。また褒められたのだと思うと、頬が少し緩んだ。
「言ったことは、必ず実現させろ。それが男というものだ。校尉とう称号も、正式にくれてやる。それで少しはやり易くもなるだろう。あと、隊の名前も決めておけ」
「分かりました」
 言って、平伏した。王双の命が助かった。それだけで、本当に心から平伏したいという気持ちになった。そしてそこから退出しようとすると、呼び止められた。
「最後に聞かせろ。さっきお前が言った二隊設立の案は、以前から考えていたことであったか?」
「いえ、たった今です」
「ははは。見事だ、何平」
 言いながら手を振られ、何平はもう一度礼をして出て行った。
 御殿から続く長い街路を歩き、洛陽の片隅にある自分の部下が待つ軍営へと戻った。方々では、灯りの元で笑い合っている兵達の声が聞こえる。殺せるものか。何平は小さく呟いた。
「隊長殿、無事だったか。心配させやがって」
 王双が、小屋の中から走って出てきた。
「馬鹿野郎」
 心配したのはこっちだ。その言葉を飲み込みながら王双の胸を小突いた。小突かれた王双は、それでも嬉しそうな顔をしていた。


3.辟邪(へきじゃ)

 杜濩と袁約が洛陽を離れる前日、山岳部隊の益州出身者を集めて酒宴を開いた。その中には何平もいるし、もちろん朴胡もいる。反逆防止のため全員で飲むことは、外で密かに見張っている衛兵に禁じられているが、この日だけは特別に許してくれた。
「この戦で劉備軍に勝てば、巴西は曹操様の領土となり、俺達は故郷に帰れるようになる」
 酔った袁約が大声で言った。そして何人かが、それを囃し立てた。
 杜濩は、その隣で静かに杯に口をつけていた。周りと違い、その顔は少しも笑ってはいなかった。
「杜濩様は少しでも故郷に近づけることが嬉しくないんですか?」
「嬉しくないように見えるか?」
「あまり喜んではおられないように見えます」
「嬉しいさ。しかし、故郷に帰るのは、戦に勝った後だ」
 その一言で何平には、杜濩が何を考えているか分かった。隊長として、先ず部隊を勝利へと導かなければいけない。負ければ、それは部下達の気持ちを裏切ってしまうということになる。そしてもし勝ったとしても、確実にここにいる者の何人かは欠けているだろう。
「新しく、隊をつくるんだってな」
「はい。私の隊を裏と例えるなら、それは表の隊です」
「いい考えだ。俺もそんな隊があればいいと前から思っていた。お前は、俺なんかよりずっといい隊長になるのかもしれないな」
 杜濩の横顔には、影があった。戦場が巴西となれば、同じ民族同士での殺し合いもあるだろう。騒いでいる袁約達は、そんな不安を吹き飛ばそうとしているのかもしれない。
「朴胡も、気をつけてな。いずれ漢中で会おう」
 何平が隊長となってから、朴胡とはほとんど言葉を交わしていなかった。自分が忙しかったということもあるが、朴胡は隊長となった自分にどう接していいのか分からないと思っているように見えた。もしかしたら、同じ年齢であるうえに後から入隊した自分が隊長になったことに対して劣等感があるのかもしれない。そう思えど何平はそれを口には出さず、以前と同じように朴胡に接した。
「洛陽での調練、がんばれよ」
 宴の終わりかけ、酔って半分眠りかけた目で、朴胡は何平の手を握りながらそう言った。
 夜が明けると、それぞれの隊は外へ出て整列を始めた。袁約はまだ酒臭かったが、堂々と自分の隊を指揮していた。その中には、昨日まで一緒に調練に励んでいた者が少なくなかった。代わりに見送る何平の隊には知らない顔が幾らか混じっている。
 やがて漢中へと向かう隊の姿は見えなくなった。杜濩も袁約も朴胡も、もう洛陽にはいない。何平の隊にいた山岳民族もほとんどが漢中へと行ってしまった。何平は何か急に悲しいものに胸を襲われて戸惑った。
 昼から始めた調練は、いつもより厳しくした。それで兵の質を見極めようということだったが、その何平の根底には仲間がいなくなってしまったということに対する不安と苛立ちがあることに何平は気付いていなかった。三日もすると、どの兵をつくる予定のもう一隊に分けるべきか分かってきた。それでも、何平は厳しめの調練をやめようとは思わなかった。調練に耐えることができる者のみ、戦場では生き残ることができるのだ。特に新兵に対しては、口癖のように何度もそう言った。
「隊長殿、こんな調練ばかりやってたら、いずれ死人がでちまうぜ」
 ある調練後に言ってきた王双を、持っていた棒で力の限り殴った。
「死ぬ者は、それが運命だったのだ。戦場で仲間の足を引っ張って死ぬくらいなら、ここで死んでくれた方がいい」
「わかりました」
 従順に直立してそう答える王双の頭からは、血が流れていた。すまん、俺がやり過ぎた。喉まで出かかった言葉を、何平はぐっと止めた。この程度のことで心を揺らせて、何が校尉だ。
調練が終わると、城外に流れる川の畔に一人で行った。そして周りに落ちてある葉を拾い、船をつくって川に浮かべた。太く、力強さのある川だった。船は緩やかに水の上を走りだし、やがて川の大きな流れに飲み込まれていった。母はどうしているだろうか。句扶は、張嶷は。そのことばかりが頭の中に浮かんでは去り、川には幾つもの船が流れては沈んだ。寂しいなどと、誰に言えようか。
船を浮かべた大河の顔は、何平に色々な顔を見せた。朝日を照り返す川は夕刻のどんよりとした川とは違い、とても美しかった。夜目を鍛える調練を終えた後である。部下は全員を帰らせ、休息をとらせている。夕方の川辺とは違い、朝の川辺にはちらほらと人がいた。皆、知らない人だ。顔のつくりも、自分とはどことなく違うように見える。洛陽の街に入る気にはなれなかった。前に街に行った時、字が読めないからと笑われたことがあるからだ。そんなことじゃあ騙されるぞ、と派手な格好をした年の近い男に言われた。
 勝てば、帰れるのだ。そのためには強くならなければいけない。部下を殺すこともあるかもしれないし、巴西に住む人を殺すこともあるかもしれない。いざそうなった時、自分はそれに耐えることができるのだろうか。そう考えると、目の前で船が沈んでいくように、何平の心も沈んだ。
「どうしたんですか」
 後ろから話しかけられ、何平はそちらに顔を向けた。若い女だった。その女が、自分の顔を見て驚いていた。それで自分が涙を流しているのだということに気づき、何平は咄嗟に川の中に顔を突っ込ませた。川底で泥が舞い上がり、川から出した何平の顔は泥だらけになっていた。
「何をしてるんですか」
 瞼の向こうで、女が笑っていた。その笑い声を背に、何平は顔を洗い直した。
「何か用か」
 顔を拭いながら言った。
「葉でできた船がたくさん流れてきたから、なんだろうと思って」
 何平がつくった船が女の掌に置かれてあった。
「どうやってつくったんですか?」
 女が何平の近くに座った。
「なに、簡単なことよ」
 近くにあった葉の一枚を女の手に、一枚を自分の手にとって船をつくって見せた。ぎこちない手つきで女も船をつくった。浮かべてみたが、女の船はうまく進まない。
「難しいんですね」
 言いながら、葉を拾ってまたつくり始めた。
「その切り込みが深過ぎるんだ。だから、船底に穴が空いて水が入ってきてしまう」
「ふむふむ」
 二個目の船は少し進んだが、またすぐに水に飲み込まれた。女は負けじともう一つの船をつくりだした。何平も手元を見せながら、船をつくった。
 二人で船をつくり続け、陽が高くなり始めた頃に女は帰っていった。女が帰ると、何平も眠気に襲われて自分の寝床へと帰った。
 久しぶりに長い時間を眠り、目を覚ますと夜が明け始めた頃だった。明るくなると、部下を城外に並べて調練を開始した。既に、兵の見極めは終わっていた。それでも何平は、まだ隊を二つに割ろうとは思わなかった。不満そうな顔をする者は、声を荒げる王双に張り飛ばされた。調練が終わると、また川へと足を運んだ。周りを気にしてみたが、昨日見た女はいなかった。何を考えているんだ。何平はいつもと違う自分に苦笑した。そしてまた、船を流した。しかし、やはり女は来なかった。
 夜目の訓練を終え、部下を帰し、また何平は川辺に座った。今度は朝である。いた。向こうもこちらに気付いたらしく、近づいてきた。
「葉の船、つくるの上手くなったよ」
 女の声は、何平の耳にとても心地よく聞こえた。
「ほう、見せてもらおうか」
 確かに前よりは進むようになったが、沈んでしまった。
「もっと大きな葉を選んだ方がいい。葉が小さいと、横から水が入ってくるんだ」
 そして二人は船をつくり続けた。女の船は、五つに一つは何平のつくったものと同じくらい浮かんでいられた。何平の船が先に沈むと、女は嬉しそうに笑った。すごいじゃないか。何平も笑いながらそう言った。
 陽が高くなってくると、前と同じように女は帰って行った。何平も帰ったが、すぐには眠れなかった。しかし一度眠りについてしまうと、長い間目を覚まさなかった。
「隊を二つに分ける」
 調練が終わった夕刻、王双を呼んで言った。早くもう一隊をつくっておかねば、曹操から何か良からぬ達しがこないとも限らない。
「詳しい話がしたい。飯でも食いながら話そう」
「落ち着いて話がしたいんなら、俺の家にくるかい?」
 洛陽出身の者は、軍営の小屋の他に帰る場所がある。夜目を鍛える調練の後などは、洛陽の兵は自分の家に帰ることが多かった。
 洛陽には城郭の内に住む者と外に住む民がいて、富裕な者は内に、そうでない者は外にと別れていた。初めて訪ねる王双の家は城郭の外にあり、簡素であるが貧困というほどではなく、必要最低限のものはそこにあるようだった。王双は、そこで妹と二人で暮らしている。
「おい、客だ。飯の用意を頼む」
 中から女の返事が聞こえた。その声は、川辺で会った女の声のようだった。自分はどうかしている。王双から見えないところで何平は頭を振った。
「隊を分けるという話だがな、王双」
 女のことを頭から追い出すように何平は話し出した。
「山岳戦になった時に、連携できる部隊をつくっておきたい。その部隊は林の中にこそこそ隠れるのではなく、相手の目につく場所にいることになる。そして常に、俺が率いる隊の部隊に合わせて動く」
「隊長殿は、その隊を率いないのかい?」
「その隊を率いるのはお前だ」
「俺が?」
 王双は目を丸くした。
「これからはお前の隊と俺の隊とで一つとなるのだ」
 王双は丸くした目を閉じ、少し考え込む顔をした。
「一つだけ正直に答えてくれ。それは俺が体を止めていられないから、お払い箱にするってことじゃないのか」
「洛陽に来てから分かったんだが、山岳戦には人によっての向き不向きがあるようなんだ。それで不向きな者をどうしようかと考えていたことは確かだ。山岳戦の部隊は、それだけでは非力な隊だ。だから予め連携の調練をし終えた隊があれば良いと思った。それは、お前等が俺に気付かせてくれたことだ。決して、お払い箱にしようと考えているわけではない」
「そうか、それを聞いて安心した。俺が、隊長か」
 王双は笑みを浮かばせながら、卓の上で組んだ手を震わせていた。今の何平には、王双のその気持ちがよく分かった。隊を受け持つ喜びの笑み。何故手が震えるのかは、部下に対する責任を感じた時に初めて分かるだろう。
「おい、歓々。兄ちゃんは隊長になったぞ」
「あら、それはすごい」
 食事を卓に並べながら言う女の顔を見て、何平は驚いた。女も、こちらを見て驚いた顔をしていた。
「船の人」
 女は言った。
「誰が船の人だ」
 何平は笑いながら答えた。
「船の人って、葉の船を一緒につくったって話していたことか。嬉しそうに話すからどんな奴かと思っていた。今度そいつの顔を見に行ってやろうと思っていたが、これは手間が省けた」
 王双がそう言うと、何平は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

 洛陽の街中は、嫌いだった。字が読めないからと馬鹿にされたことがあるからだ。夜目を鍛える調練を終えた後、街に行こうと言い出したのは、王歓だった。
「字なら、私が読みますよ」
 そう言ってくれるので、何平は行ってみてもいいかという気になった。
 城壁には破損している箇所が所々あり、足場の上で補修をしている者が少なくない。その中で、大きくて立派な一際目を引く巨象が二つ、門の脇に構えている。虎のような体を持ち背には翼があり口からは長い髭をなびかせて、一頭には角が一本、もう一頭には二本はえている。初めて洛陽に来た時は、この二頭の象がとても大きく感じられた。
「あのでかいのはなんなのだ、歓」
「あれは辟邪っていうのよ。洛陽の街を悪いものから守ってくれてるの」
 口には出さなかったが、そんなもの何の役に立つ、と何平は思った。あれが守ってくれるのなら、自分達が毎日苦しい調練に耐えているのは何のためだ。それでも楽しそうにしている王歓を見ていると、まあいいか、と思えた。
 辟邪の間を通って街に入り、しばらく二人はぶらぶらと歩いた。並ぶ家々はまだ簡素なものが多かったが、市場の人々は活気に溢れていた。そして何平は自分が字を読めないことを気にし過ぎていたということに気付いた。こちらから話しかけなければ、話しかけられることはない。話しかけられなければ、馬鹿にされることはない。それよりも、人々はものと銭の交換に忙しいようだった。
 何平は、ふと一つの店の前で止まった。何平が立ち止まったので、王歓も立ち止まった。店には、髪飾りが並べられてあった。目を細めながらそれを見つめ、王歓の顔を見た。一つを選んで掴み、懐から銭を出した。校尉の俸給として得た銭だ。
「これ、似合うんじゃないか」
 言いながら渡すと、王歓は吹きだすようにして笑った。王歓が本当に嬉しい時の笑い方だ。何平もその顔を見て嬉しくなったが、どこか恥ずかしい気持ちもあって顔を背けて歩きだした。王歓は笑顔で、その後を追ってきた。
 何平はこの洛陽という街を好きになり始めていた。以前は目を閉じるといつも故郷の巴西のことばかりを思い出していたが、今は調練による疲労があれば眠りを欲するままに眠ることができた。調練は、五日続けて六日目に休む。その六日目には必ず王歓と会った。もっと会いたいと、仄めかされることはあったが、それを率直に言われたことはなかった。何平ももっと会いたいと思っていたが、口には出せない。自分には、部下がいるのだ。王歓も、そのことはよく分かってくれているようだった。もしかしたら、王双が気を使って何か言ってくれているのかもしれない。
 ある日、王歓が一つの竹簡を手にしていた。史記、と書かれてあった。無論、何平には読めない。
「近くにすむ物知りおじいちゃんが持ってるのを貸してもらってきたの。これを読んで、字を覚えましょう」
 王歓はそれを髪飾りのお礼だ、と言った。
 二人は座り、王歓は手に持つ竹簡を音読し、何平はそれを聞いた。一人の男の一生が書かれた竹簡だ。時に自分の考えを口に出しあいながら、王歓は読み、何平は聞いた。
 次に会った時は、別の竹簡を用意してくれていた。違う男の一生が書かれてあるものだった。王歓は休みの度に竹簡を用意してくれ、読んでくれた。字を学ぼうということだったが一字も憶えることなくその話を聞いていた。それで、よかった。
 そうして、二年が過ぎていった。何平と王歓は、当たり前のように男と女になっていた。部下を鍛え、女を愛す。故郷のことを完全に忘れたわけではなかったが、ここでの生活は何平にとってかけがえのないものになり始めていた。
 洛陽に兵が集められていた。曹操軍による益州攻めが開始されるようだ。洛陽へ集められた兵は長安へと送られ、漢中へと向かう。ここでは兵の編成が行われ、山岳戦の調練をするという。つまり、何平の隊が相手になるのだ。
「腕が鳴るぞ、隊長殿。今まで地味な調練ばかりで、兵達も倦み始めていたところだ」
 王双も隊長として歩兵を率いていたが、まだ何平のことを隊長殿と呼んでいた。二隊の長は何平なのだと部下に分からせるためだ。王双は無骨な男に見えるが、意外とそんなところに気が回った。
 調練の場は、洛陽から西へ百里(約四キロ)行った所にある森の中だ。長安に向かう兵は、この森の脇を通る。その兵を急襲するのだ。もちろん、相手は我々がここに伏せていることを知らない。ただこの辺りは賊が多いから気をつけろとは言われているらしい。
「相手の持つ武器は実戦用の武器だが、我々の持つ武器は調練用の武器だ。気を抜けば、殺されるぞ」
「上等だ、やってやろうじゃないか」
 兵達はしずかな表情をしていた。こんな時は、指揮官の気迫が兵の士気に影響する。大言を吐きながら王双が、兵を上手く鼓舞していた。
 自分が育てた部下が殺されるかもしれない。そんな不安はあった。だが自分の隊に足りないものは、実戦だと思っていた。その経験を得るためにも、この模擬戦は有意義なものとなるはずだ。
 調練用の武器だが迷わず殺すつもりで行け、と部下には伝えておいた。
 何平隊が百名で、王双隊が二百名。合わせて三百名が森の中に伏せた。兵が来る予定よりも大分早い時間だった。緊張の中で待たせるということも調練になると思ったからだ。何平は木に登り、洛陽の方をじっと見つめた。二頭の辟邪がそこに悠々と鎮座している。来た。その辟邪と辟邪の間から、兵がぞろぞろと歩いて出てきた。前に歩兵、後ろに輜重。それを確認すると、何平は王双の近くに行った。
「予定通り、後続の輜重を襲え。そして森の中に誘いこめ」
 言い終わると兵と部下と一緒に森の中に伏せた。八人で一組である。前に二人ずつを二段に置いて、後ろに四人を並べる。敵と遭遇した時は前の四人が相手を威嚇し、敵がそれに気を取られている隙に後ろの四人が音も無く回り込んで包囲する。森の中は視界が悪く、前後から挟まれたと思わせれば囲む人数はたった八人でも敵は何人もの兵に囲まれたと錯覚して狼狽する。浮足立った相手ほど簡単なものはない。それを十三組つくった。その十三組を横に並べ、外側に位置する組には敵の横に回り込むようにして動けと伝えてある。十三組で、八人の動きを大きくした動きを展開させるのだ。それで二千までの相手なら潰走させられる自信があった。兵力差があろうと、見えない所から襲われる恐怖を与えてやれば、それは大軍でも全体に伝達していく。木々が生い茂る森の中では、目に見えない敵というのが一番怖いのだ。気付けば音もなく目の前で仲間が殺され、次の瞬間は自分ではないかと気が気ではなくなる。兵が果敢になれるのは、目の前に倒せる敵がいる時だけだ。
 喚声が聞こえた。森から出て行った王双隊が輜重にちょっかいを出して引き返してくる。程なくして何平達の横を王双隊が走り抜けていった。違う具足をつけた兵が遅れて森の中に入ってきた。後ろの方では、王双隊がその兵を挑発している。
「捕えて殺せ」
 隊長らしき者がそう叫んで兵を進めた。前列にいた何平は一歩踏み込んだ。攻撃開始の合図である。後ろから気配が音もなく消えた。何平を含めた四人は姿を見せないように動き回って木々を揺らし、相手を幻惑させた。ある程度動き回るといきなり相手の目の前に飛び出し、目を丸くさせた敵の喉を木製の短剣で突いた。相手は刃でやられたと思ったのか、両手で喉を押さえて蹲った。三人も、同じように兵を倒していた。狙うのは、具足の開いた喉。これも徹底して覚えさせたことだった。多人数に対する八人による包囲は不完全かに思われた。相手には後続がいたので後ろの四人が回り込みきれず、半円を描く包囲ともいえない包囲になってしまった。失敗か。そう思ったが両側前方から喚声と悲鳴が上がると、その動揺はすぐに相手の内側にまで伝わっていった。目の前にいた兵も、攻めるべきか退くべきかという迷った顔を見せた。何平は見逃さず、その兵を倒した。後ろからは王双隊も追撃に加わり始めている。潰走はすぐに始まった。追撃は森が続くところまでと決めていた。森を出ると、装備の薄いこの隊は脆いのだ。
 潰走していく兵の中にも、最後まで抵抗しようという勇敢さを持つ者も少ないながらいた。そういう者は、早めに倒しておくべきだった。その勇敢な者を中心にして兵が集まりかねないからだ。何平は倒すべき相手を見極め、一人二人と打ち倒した。次の相手に襲いかかろうとしたが、不自然さを感じて足を止めた。その男が手にしている武器は、何故か木でできた棒だった。どこかで見たことがある。許褚だ。兜の下に光るその眼と眼が合い、思わず何平は後ずさりをした。
「どうした、隊長殿。まだ森は抜けていないぞ」
 後ろから王双が追い付いてきた。
「待て、王双」
 言ったが、耳には入らなかった。王双は両手に木製の短剣を構え、許褚の方へと突っ込んだ。一合、二合。素早い打ち込みを許褚は防いだ。反撃しようとも棒の長さが邪魔なのか、思うように動けていない。そして攻められた許褚は、木を背にして動きを止めた。王双が勝った。そう思ったが、崩れたのはとどめを刺しにいった王双だった。突き出された棒に、自分から突っ込んだようだ。いや、そこに突っ込まされたのか。
 何平は追撃終了の合図を出した。
「やるではないか、小僧」
 許褚が、王双の大きな体を片手で抱え上げながら言った。そして一人の兵が、許褚の後ろから出てきた。
「良い部隊をつくってくれた、何平」
 曹操だった。驚いた何平はその場に平伏した。
「今日は全軍でここに野営だ」
 その声は、木の上から聞こえたような気がした。

 目を覚ました王双は、歯がみしながら悔しがっていた。あの人は親衛隊長だから、強くて当然だ。そう言ったが、煮え切らないという表情を消そうとはしなかった。
「今日はおかげで楽しかったぞ、何平」
 曹操の幕舎だ。今回は、王双も呼ばれていた。中央に座る曹操の近くには相変わらず許褚が侍り、その右には六人が並んで座っている。一人は模擬戦相手だった千人の隊長で、五人はその小隊長らしい。何平と王双はその六人と向かい合って座らされた。机の上には、温かい食事と酒が置かれてある。
「犠牲は、二十二名。全て漢中へ向かっていた兵だ。何平の隊は、一人も欠けていないな」
「申し訳ございません」
「なんの。調練用の武器で殺されるような兵は我が軍には必要ない。それにしても、こうも簡単に破られるとは」
 曹操が六人の方に目をやると、六人は俯いた。この六人も、曹操が付いてきていたことを知らなかったらしい。
「まさか、丞相自らおいでとは」
 何平が言った。王双は、隣で緊張しているようだった。
「自分の目で見るのが一番よく分かる。許褚には止めろと散々言われたがな。王双といったか、貴様もよかったぞ」
「はい、しかし負けました」
 急に話をふられて王双の声は上ずってしまい、曹操は大声で笑った。向かいの六人も小さく笑ったが、曹操がそちらを睨むとまた体を縮ませていた。
「許褚、手合わせしてみてどうだった」
「気絶したとはいえ、良いものを持っています。将来性はあると思います」
「よかったじゃないか、王双。こいつがこうやって人を褒めることなどなかなかないのだぞ」
 さっきまで悔しがっていた王双は、照れくさそうに笑った。負けず嫌いではあるが、根は人懐こい男なのだ。
「隊の名はまだ決まっていないのか。山岳戦の部隊などと、長ったらしくていつまでも言っておれんぞ」
 皆の前では言っていない。でも、心の中では決めていた。
「辟邪隊」
「良い名だ。二つの隊で、俺の国を守ってくれるか」
「はい、全力で守ります」
「では辟邪隊に命ずる。北から漢中へ向かう軍は、洛陽を通る。その軍を全て襲い、山岳戦とは何かを見せつけろ」
「はい」
 何平が両手を前で組むと、王双もそれに倣った。
 幕舎を出て自分の隊に戻ると、部下達はいい顔をしていた。辟邪隊。そう命名したと伝えると、小さな喚声が上がった。


4.王平

 静かな森の中だった。洛陽に連れてこられてから二年が過ぎていた。独りではあったが、今は王双がいて、王歓がいて、部下達がいる。街の中にも、知った顔は少なくない。軍用の短剣を造ってくれる鍛冶屋の親方も、馴染みの飯屋のおやじもいい人だった。森に伏せている時は無心であるべきであったが、たまにそんなことが頭の中をよぎった。
「来ました。相手は、およそ七百」
 見張りの者が、音もなく伝えてきた。相手といっても、同じ曹操軍の兵だ。漢中へと送られるところを急襲する。それで戦場へと向かう兵達に山岳戦の怖さを教え、気を引き締めさせるためだ。漢中へと向かう兵を襲うのは、これで何度目になるだろうか。こちらが負けたことは、一度もない。辟邪隊は調練用の木剣を手にしているのに対し、相手は実戦用の武器を手にしていたが、こちらに死人がでることはなかった。相手には、毎回当然のように死人がでていた。部下達は、この調練を楽しんでいた。勝てるということが単純に楽しいのだろう。動きもこの模擬戦を始めてから各段に良くなってきている。
 敵をおびき寄せた王双隊が、目の前を通り過ぎて行った。程なくしてやって来る兵を迎えうち、潰走させる。そして追撃戦に移る。もう手慣れたものだった。
 休みの日は、相変わらず王歓に会った。前に読んでくれたものの他にも、漢書というこの国のことが書かれた竹簡も読んでくれた。この国は、劉邦という人物が漢中から興したのだという。それで字を憶えるということはなかった。ただ、そういう話を王歓と一緒に知っていくということが楽しかった。
 母や故郷のことは、次第に考えなくなっていた。考えても仕方のないことであったし、今ではここでの生活が何平にとって大切なものとなっていた。それでも、自分が益州攻略戦に駆り出され、洛陽を離れなければならなくなる時はいずれくるのだろう。そのために毎日を調練に明け暮れ、兵の数ももう五百まで増えている。何平隊の中核に十人の山岳民族がいて、それぞれが八人一組の指揮を執る。それで合計百三十。八人一組を十五組つくり、余った十名は予備兵としている。残りの三百七十程は、王双が率いている。王双隊の数が多いのは、実戦に出れば損耗が大きくなるのは敵に身を晒す王双隊であるからだ。それに何平隊は、人数が多過ぎれば円滑な隠密行動ができなくなる。二百がこの隊の適数だと考えていた。そういったことは、全て王双と二人で話し合って決めていた。俺達は二頭の辟邪だ。そんなことも言い合った。それを近くで聞いていた王歓が、男の子なんだね、と笑っていた。

「出撃」
 杜濩がやっていたのと同じように、手で合図を出した。それだけで、百二十名に自分の意思を伝えることができるようにしていた。洛陽の西を進み、適当な場所に伏せる。伏せる場所は、前回の模擬戦の時に決めておく。同じ場所には伏せない。それでは兵の経験にならないからだ。
 今回は、木々の少ない岩山に伏せた。森の中よりはいくらか見通しがいい。こんなところでも勝てれば、兵に自信をつけてやることができる。
「数は、約五百」
 そろそろか、と思った時に見張りが伝えてきた。いつもより少ない兵数。楽勝だな、思わずそう口に出してしまいそうになった。
 やがて五百が近づいてきた。早い行軍だ。早いくせに、その行軍は今まで襲ったどの兵達よりも整然としていた。嫌な予感がした。そして何故か何平の頭の中には曹操に負けて捕らえられた時のことがよぎった。たった五百だ。そう思い直し、その五百をじっと見つめた。旗には「張」と書かれてあった。巴西にいた時も、この字が書かれた旗を見たことがある。見ていて身震いするほどの圧倒的な戦をする、虎髭の大男が率いる隊だった。目の前を行く隊の隊長は、小柄だった。小柄ではあったが五百の兵を全く乱れなく率いており、その整然さが何平の心に芽生えた不安をどんどん大きくさせていった。見ていると、不意にその隊長と眼が合った。老練さを感じさせるその視線は、明らかに辟邪隊のことを見ていた。
 まずい。
 何平は、反射的に伏せていた岩山から飛び上がって王双隊の方へと走った。撤収だ、そう叫んだと同時に、王双の突撃の号令がかかった。間に合わなかった。王双隊は、一直線にその五百に向かって突っ込んで行った。五百はみとれるほど鮮やかに散開し、あっさりと王双隊を包囲した。向けられているのは、実戦用の鋭い槍だ。
「皆出てこい。王双隊を助けるぞ」
 逃げるべきか。そんな考えも一瞬頭をよぎったが、すぐに振り払った。目の前で、仲間がこれから殺されるのだ。手勢の百二十の先頭に立ち、包囲の薄いところをめがけて突っ込んだ。しかしあっさりとはね返された。相手は完全装備、こちらは軽装なうえに木製の短剣である。包囲の中から悲鳴が聞こえた。その中には、聞いたことのある声も混じっていた。何平はもう一度突っ込んだ。そしてまたはね返され、周りの何人か倒れた。もうやめてくれ。これは、実戦ではないんだ。
「全軍、やめ」
 また突っ込もうとした時、五百の隊長が号令した。それで向かい合う兵は、戦うことを止めた。
「貴様等、何者だ。そんな武器では相手を殺すことはできんぞ」
 包囲が解かれた。中にいた王双隊は、血に塗れていた。槍で突かれたのか、腹から血を流している者は一人や二人ではなかった。
 何平はその隊長の前に進み、出で慇懃な態度で言った。
「洛陽の辟邪隊といいます。山岳戦を見せるため、ここを通る兵を襲えと命じられておりました」
 張の旗の隊長は困ったような顔をしながら言った。
「そうであったか。とりあえず負傷者の手当てを、そして損害の報告をさせろ」
 内心動揺しながら、何平も同じ処置を部下にさせた。こんな命令を下すのは初めてだった。死者二十七名、負傷者八十一名。そう報告されても、何平はどこか上の空だった。相手の死者は三名、負傷者はいない。死んだ相手の三名は、全て王双の手によるものだった。
「噂には聞いていたが、本当だったのだな。丞相は、相変わらず無茶なことをなさる」
 張郃(ちょうこう)だ。隊長がそう名乗って来ると、近くにいた王双が張郃に掴みかかろうとした。
「張郃。お前は、何人俺の部下を殺した」
 何平は王双の体にしがみついて止めようとした。気持はわかる。自分の部下も、王双隊ほどではないにしろ何人か死んだ。しかしこれは戦なのだ。俺達も、ここを通って行った兵に同じことをしてきたじゃないか。そう言うと、ようやく王双は自分を落ち着かせた。張郃は微動だにせずじっとこちらに眼を向けていた。
「何平、王双、その気持ちを忘れるな」
張郃はそれだけ言い残し、二人から離れた。そして死んだ三人の遺骸を埋めると、何事もなかったかのように整然と隊列を組んで行ってしまった。周りでは、死んだ者の土葬がされていた。中には涙を流している者もいる。何平は毅然とした態度で自分の隊を見て回った。負けた時、隊長は負けた顔をしてはいけないと杜濩に言われていたからだ。しかし、負けたのだ。泣けるものなら、自分も泣きだしてしまいたかった。
 強い兵とは、ああいうものなのか。何平は呆然後ろ姿を見続けた。

 辟邪隊に暗い空気が漂っていた。無理もない。初めての負けだったのだ。死んだ仲間も、少なくなかった。
「死んだ者達の分は、お前等が働くのだ」
 そう言うと部下達はいくらか気持ちを入れ直していたが、それは気休め程度のものだった。
一番落ち込んでいたのは王双だった。何人も部下を殺してしまったという責任に、押し潰されそうになっていた。それでも調練になれば、誰よりも励んでいた。王双のそんな姿の方が、何平の言葉よりよっぽど部下達を元気付けていた。戦では、敵味方問わず人が死ぬのだ。そんな当たり前のことを、自分も含めてちゃんと理解していなかった。調練は、前と比べて厳しいものにした。体を疲れさせることで、嫌なことを忘れようとしていただけかもしれない。
 数日すると、また漢中へと向かう兵達がやってきた。不安そうな顔をする者もいたが、今度は簡単に勝つことができた。それでようやく、漂っていた暗い雰囲気が消え始めた。
 辟邪隊、漢中へ出陣。その達しがきたのはそんな時だった。
 営舎の空気がそわそわし始めた。調練に臨む兵の顔には気合いが漲っている。戦に赴くと聞いて、皆が各々に自らを奮い立たせていた。その気持ちはもちろん何平にもあった。またそれとは違う気持ちも芽生え始めていた。前はあんなに帰りたかった巴西ではあったが、今は洛陽の地が心地よいものになっていた。益州に行けば、巴西の山岳民族と殺し合うことになるかもしれない。もしかしたら、張嶷や句扶とも敵として再会することになるかもしれない。それに洛陽には、歓がいる。
 隊長は、自分の部下を勝ちに導かなければいけない。杜濩が言っていた言葉が何平の胸に突き刺さっていた。勝てないということは、張郃にやられたことをまた味わうということだ。そんなことはもう自分には許されない。しかし勝つということは、つまりは巴西の人間を殺すということだ。戦だとはいえ、そんなことが許されていいものか。そうやって勝ったとして、果たして自分は勝ったと胸を張ることができるのか。何平はこの胸の内を誰にも明かすことなく、ずっと一人で悩んだ。健気に調練に励む部下を目にして、こんな悩みを口にできるはずがなかった。
「どうしたの、怖い顔してる」
 言われたのは、王歓に書を読んでもらっている時だった。
「実はな・・・・・・」
 言おうとして、言うべきかどうか考えた。言ったとして、それがどうなるというのだ。
「兄さんが言ってた。洛陽を出ることになったって」
「ああ」
 それだけ言った。言いたいことを言うと、不安が現実になりそうな気がした。
「でも、帰ってくるんだよね」
「もちろん」
 それは、分からなかった。益州攻略戦がいつまで続くのか分からないし、死ねば帰ってくることはできない。
「じゃあどうしてそんな暗い顔してるの。あたし、不安だよ。兄さんにこのことを聞いても言葉を濁されるだけだし」
「大丈夫だよ、歓。俺は、必ず戻ってくる」
 そう言って、王歓の小さな肩を後ろから抱いた。俺だって、できることならずっとこうしていたい。戦へ向かう父も、こんな気持ちだったのだろうか。父は死に、母と自分は残された。父を見送る母も、こんな不安な気持ちでいたのだろうか。外から虫の音が聞こえる。腕の中には、王歓の温かい体がある。しかし、時が来れば行かなくてはいけない。今というこの瞬間が終わってしまうということが、どうにも理不尽なことに感じた。
「実はね」
 王歓が言った。言ったまま、黙りこんだ。何平は王歓を抱いたまま、次の言葉を待った。だが、いつまで経っても待つばかりだった。
「実は、どうしたというのだ」
 堪りかね、何平は聞いた。
「言おうかどうか、すごく迷った。行ってしまえば、戦に行くあなたの心を乱してしまうと思ったから。でも、言わせて。あなたが洛陽を離れたら、もう会えないんじゃないかって、不安で不安で仕方ないの。今、あたしの体の中には、あなたの子がいるの。だから、帰って来て。戦なんて全部投げ出してでもいいから、必ずここに帰って来て」
 言いながら、王歓が泣き始めた。何平は子ができたということに驚いたが、それ以上に王歓は不安と恐れで胸が一杯だったのだろうということに気付かされ、はっとした。何平はその王歓の泣き顔を、大きな胸で受け止めた。
「分かった。必ず俺はここに帰ってくる。だから泣く必要なんてないよ、歓。何があってもここに帰ってくる。約束だ」
「本当に?」
「本当だ。俺が嘘をついたことがあるか? 男は、嘘をつかないんだ」
「それじゃ女のあたしが嘘つきみたいじゃない」
 不安がある程度和らいだのか、王歓の顔に少しだけ笑みが戻った。王歓と子を生せた。それは単純に嬉しいことだった。帰ってこられないかもしれないという気持ちはあったが、それは帰ってこなければいけないという気持ちに変わった。帰ってきたければ、負けなければいいのだ。負けると思えば逃げればいい。逃げ切ることができれば、それは自分のにとっての負けではないのだ。
「歓、お前は俺の妻で、俺はお前の夫だ。俺がいくら遠くに出かけようと、必ずこの家に戻ってくる。漢中に行くといっても、ちょっと遠くに仕事をしに行くだけだ。帰ってきたらまた、竹簡を読んでくれ」
 王歓は何平の胸の中で小さく頷いた。
 次の日、何平はいつも以上に調練に力を入れた。
「どうした隊長殿。今日はやけに張り切ってるじゃないか」
 休止中に王双が話しかけてきた。
「子ができたぞ、王双」
「は?」
「子ができたと言っているんだ。俺と、歓の子だ」
「お、おう。そうなのか」
 王双は眼を丸くしていた。
「俺は、この洛陽が自分の故郷だと思い定めることにした。俺は必ずここに帰ってこなければいけなのだ」
 王双は、黙って頷きながら聞いていた。
「名も改める。俺は今日から王と名乗る。何平ではなく、王平だ。巴西を故郷だと思う自分は捨てた。これからは、この洛陽が俺の故郷だ。お前とも、これからは義兄弟ということになるな」
 言って王平は笑って見せた。すると、王双は満面に感激を浮かべて王平の手を握り、何度もありがとう、ありがとうと言った。妹に対する父親のような気持ちもあったのだろう、と王平は思った。


5.漢中へ

 洛陽を離れる日が来た。正式にも名を改めた王平はこのところ、ずっと辟邪隊の出発に備えた雑務に追われていた。兵糧や武具の受け取りと配分が主なことだった。忙しいわりには退屈な仕事だったが、やっていれば戦への不安は薄れた。戦への不安とは、もうここには帰って来られないのではという不安だ。もし自分と王双が戦で死ぬようなことがあれば、王歓とそのお腹にいる子はどうなってしまうのか。歓はまだ若い。子を育てるために、自分の体を売るようなこともあるのかもしれない。そんなことは、考えただけで身が内から張り裂けるくらい嫌だった。巴西には帰れなくなってもいいから、この洛陽に帰ってきたい。俺はもう何平ではなく、王平なのだ。
 ずっと軍営にいた王平は進発前、王歓に会うべきかどうか迷っていた。会えば、逃げだしたくなってしまうだろう。王平と名を改めて自分は洛陽の人となったというと歓は喜んでくれた。それでいいではないか、と王平は何度も自分に言い聞かせた。しかし辟邪隊を含めた軍が洛陽を出る直前になると、王平は胸が締め付けられるような想いを感じた。歓に会いたい。目を閉じると、歓の色々な表情がそこに甦ってきた。
「行ってこいよ」
 王双にそう言われた。すぐ戻る。反射的にそう答え、王歓の元へと駆けた。これでいのか。駆けながら自問した。背後には自分の隊があり、部下がいる。そこに後ろめたさを感じながらも、王平は駆けた。
 王歓がいる家まで来ると、王平はそっと中を覗いてみた。小さな部屋の片隅で、王歓は小さくうずくまって肩を震わせていた。それを見て、王平は暴力的なまでに自分の足を来た道へと向け返し、その足で自分の体を軍営の方へと無理矢理運んでいった。声をかけてやりたかった。震える肩を抱きしめ、もう大丈夫だと言ってやりたかった。だがそんなことをすれば、もうそこから出ていけなくなるだろうということも痛い程に分かってしまった。だからこそ、そこに入ることはできなかった。
 軍営に戻ってきた王平はいつも通り、その荒れに荒れた心を隠そうと胸を張ってそこを歩いた。やがて、軍の進発が始まった。

 洛陽から西の古都長安に入り、陳倉を抜けて漢中に入った。久しぶりの広大な山深い地形は、王平の荒れた胸の中を癒してくれるようだった。行軍途中で、他の隊がこの辺では賊がよく出ると噂していた。それを聞いて、王双と顔を合わせて苦笑した。
「久しぶりだな、何平。いや、今は王平だったか」
 漢中に着くと、朴胡が会いにきた。王平は、心がぱっと明るくなったような気がした。
「本当に久しぶりだ。洛陽の一人残された時は、寂しかったぞ」
 三年ぶりに会った朴胡は一隊長に格上げされており、体は一回り大きくなって顔は自信に満ちているようだった。体の所々には小さな傷痕が刻まれており、そこで繰り広げられている激しい戦を連想させられた。
「俺は杜濩様と袁約様と一緒に、巴西の黄権を牽制することになった。それまではしばらく時があるから、今夜は酒でも飲みながら大いに語りあかそう」
 その夜は、朴胡から色々なことを教えてもらった。益州の総司令官は夏侯淵といい、曹操の従兄弟にあたる人物だという。穏やかな性格で。武芸は剣や槍などではなく弓を好むらしい。山岳民族を差別しない良い司令官だ、とも言っていた。
 漢中の街に兵はいたが、民はいなかった。曹操が漢中を奪った時に、そこは戦の最前線だからという名目で、住んでいた民は全て北のどこかの街に移されたらしい。この戦乱の世では、民さえも国が奪い合う財産の一つとなるのだ。強制的に移住させられた民の中に自分と歓のように離れ離れにされた者もいたのだろうか、とふと思ったりした。
 王平と王双は朴胡に案内され、漢中の本営に出仕した。
「辟邪隊隊長、王平です」
 夏侯淵将軍は口髭を蓄えた穏やかな表情で、洛陽からの行軍を労う言葉をかけてくれた。そしてこの戦場における訓示をくどくどと述べ始めた。将軍の傍らには、まだ顔に幼さの残る少年がいた。若いがその厚いまぶたの奥からは、強い視線がこちらに向けられていた。その後、洛陽から漢中に送られてきた軍の小隊長が集められ、郭淮というまだ若い武官が戦線についての説明を始めた。
 漢中から西へ進むと、陽平という所に大きな関所がある。劉備軍の本隊はそこに駐屯している。その陽平関の手前に定軍山があり、そこがこちらの前線ということになる。兵の数は、六万と六万で同等だった。しかし劉備軍には圧倒的な地の利がある。深い山と谷に囲まれている益州はそれ自体が大きな砦のようなもので、うかつに兵を進めようものなら大きな損害が出ることになるのだ。巴西で生まれた育った王平には、それがよく分かった。
現在、定軍山で指揮を執っているのは、張郃という将軍だ。それを聞いて、王平は心の底から猛るものが湧きあがってきた。忘れることができるはずもない名だった。王平は張郃に負けた時のことを思い返してみて、あの時どうやったら勝てていたかを何度も考えてみたが、あの軍が負けるところをどうしても想像することができなかった。今やその将軍が味方となるのだ。心強くないはずがなかった。
郭淮の説明が終わると、さっそく調練に打ち込んだ。漢中の森は洛陽周辺のそれとは違う。植物が違い、土が違い、空気が違う。それはまるで一つの大きな生き物のように息づいているのだ。
「今まで洛陽で調練してきたことと、ここで調練することは違うことだと思え。兵を早くこの森に馴染ませなければ、勝てるものも勝てない。相手にも優秀な山岳戦部隊がいるからな」
 王平はそう言って自分の隊を戒めた。
 杜濩にも会いに行った。お互いに懐かしむ感情はあったが、すぐに戦の話を始めた。やがて袁約と朴胡もそれに混じり、これまでの三年間のことを色々と話し合った。水面下で行われる山岳戦部隊同士の暗闘のこと、漢中に住む動植物のこと、王平が妻帯したということ、戦の中にある一滴の楽しい時間であった。
 そして杜濩、袁約、朴胡の率いる三隊は、黄権を牽制するために巴西へと向かって行った。漢中に駐屯する夏侯淵将軍も陽平関に向かうため、その準備を着々と進めているようだった。大きな戦を目前とした。軍営内は、風雲急を告げていた。
そんなある朝、調練を始めようとしていると、背の低い男が辟邪隊の軍営に入ってきて言った。
「俺も調練に加えろ」
 まだ若すぎるほどに若い、夏侯淵将軍の近くにいた少年だった。
「名を教えて頂こうか」
 少年とはいえ、将軍の近くにいた者だ。王平は慎重に言葉を選んだ。
「名などどうでもよい。曹操軍の兵が調練をしたいと言っているのだ。調練をするのに、それ以上どんな言葉が必要だというのだ」
 風貌は若かったが、その言葉は堂々としていた。
「小僧、いくつだ」
 近くにいた王双が荒々しく言った。
「十二だ。それがどうした」
「威勢がいいのは結構なことだが、まだ体も成長しきっていない子供がこの隊に加わっても足手まといなだけだ。後で槍の使い方でも教えてやるから、調練が終わるまで待っていろ」
「黙れ。俺はこっちの隊長と話しているのだ。それに俺はこの隊に加わりたいわけではない。この隊の戦い方を知りたいのだ」
「この餓鬼。言わせておけば」
「よせ、王双。小僧、そこまで言うなら勝手に付いてこい。その代わり、弱音を吐くことは許さんぞ」
 その少年は、つぶらな瞳でこちらを見つめながら頷いた。その瞳は、痛すぎる程に少年のものであった。
「色々と教えてやるから、俺のそばを離れるな」
「わかった」
「おい、こいつに山岳戦用の武具を渡してやれ」
 部下に命じ、少年はその部下に付いて行った。
「隊長殿、なんだってあんな小僧に」
「あの少年は昨日、夏侯淵将軍のそばにいた。恐らく、将軍の息子か何かといったところだろう」
 それを聞いた王双は、目を丸くさせて唾を飲み込んだ。その顔が面白く、王平は思わず吹き出し笑いをした。
 少年が出てきた。腰に佩いた二本の短剣が大きく見え、つけた具足はだぶついていた。
「もっと小さいのはないのか」
「それしかない。ところで、名は何と言うのだ。教えてくれなければ、呼ぶ時に困る」
「栄、と呼べ」
「夏侯栄か。将軍の息子とはいえ、容赦はせんぞ」
 夏侯栄は、はっとこちらに顔を向けてきた。
「なんだ、知っていたのか」
 夏侯栄はつまらなさそうな顔をした。その顔は、やはり子供だった。
「言っておくが、一日とはいえ俺の隊にいる間は、隊の者に対する不遜な態度は許さん。それが我慢できるのなら、つれていってやろう」
「はい、わかりました」
 夏侯栄は素直に返事をし、手を前に組んで礼をして見せた。
 将軍の息子がいるからといって、調練の手を緩めはしなかった。こごみ歩きができなくなって倒れた夏侯栄の尻を蹴り飛ばし、森の中で伏せていた時に動いた腕を締め上げた。調練が終わる頃には、夏侯栄は動けなくなっていた。王平はそれを背負って軍営まで運んでいった。
 夕食の用意がされ、王平と夏侯栄は火を挟んで向かい合って座った。
「よく最後までがんばられましたな、夏侯栄様」
「その口調はよしてくれ、隊長。確かに入隊は今日だけだったが、いきなりそんな口調で話されたら喋りにくい」
「そういうわけにはいきません。将来、一軍の将になろうという者が、単なる一隊長と対等に話されては威厳を失ってしまいます」
「俺に軍学を教えてくれる者も、そんなことを言っていた。嫌な感じだと思っていたが、そういうものなのかな」
「それを嫌な感じだと思ってくださる。それは我等雑兵にとっては誠に有難いことです」
「お前がそう言うのなら、そうしよう」
「どうして、兵の調練をしてみようと?」
「兵を率いる者は、兵のことをよく知っておかなければならんと父上が言っておられた」
「将軍の命でございましたか」
「違う。調練をしてみようと思ったのは、俺の意思だ」
 目の前で、火にくべられた小さな鍋が煮立ってきた。王平は鍋の中身を器にとって、夏侯栄に渡した。夏侯栄は渡されたものに息をかけ、熱そうにしながらそれを食った。
「なんだこれは」
「穀物を練って玉にしたものです。お味はどうでしょう」
「うむ、これは、なんというか」
「まずいでしょう。まずいと、遠慮なく言ってくれていいのです。兵はこんなものを戦中に食します。それでも慣れると、これがなかなかうまく感じられるようになってくるものなのですよ」
 夏侯栄は難しい顔をしながらそれを飲み込んだ。
「俺はまだまだ知らぬことが多いのだな」
「これから知っていけば良いのです。下の者は上の者にそうやって知ってもらえると、それで幾らか安心できるものなのです」
 そう言い、王平もそれを口に運んだ。その瞬間、側頭部に何かがぶつけられて王平はふっ飛んだ。
「よせ、趙顒(ちょうぎょう)
 倒れた体の背後から聞こえた。
「探しました、夏侯栄様。こんな所で、何をしておいでです」
「調練に、参加させてもらっていたんだ」
「ほう」
 立ち上がろうとした王平の顔に、足が飛んできた。さっきの一撃も蹴られたのか、と王平は転がりながら思った。
「貴様、この方が誰か分かっているのか」
「隊長殿に何しやがる」
 どこからか王双が現れた。
「王双、やめろ」
 王平が叫んだ。
「私は、夏侯栄様の目付をまかされている。あろうことか、夏侯栄様をこんな目に合わせるとは」
「やめろ趙顒。これは俺が自分から言い出したことなんだ」
「申し訳ございません。夏侯栄様を調練に連れ出したのは、他でもない私でございます」
 言って、王平は平伏した。
「隊長、やめてくれ。俺がつれていけと言ったのだ。この者には、何の罪もない。だから趙顒、お願いだからやめてくれ」
「このようなところで、このようなものを食されてはなりません。お父上様もお悲しみになりますぞ」
 趙顒は夏侯栄の手にあった兵糧の器を取り上げ、まるでそれが汚いものであるかのように地面に投げ捨てた。
「貴様等、反省しているのなら今回だけはこれ以上何も言うまい。ただし、また同じようなことがあれば、その首は胴から離れるものと思え」
 言うと、趙顒は夏侯栄の背中を押すようにしてその場を行こうとした。
「許せ、隊長。許せ」
 去り際に夏侯栄がそう言った時も、王平はずっと顔を地につけたままだった。やがて二人は夕闇に姿を消し、そこでようやく頭を上げた。
「軍人はつらいな、王双」
「なんだってあんな奴に頭を下げるんだ、隊長殿。調練に参加したいと言い出したのはあいつの方だぜ。こんなこと、理不尽過ぎる」
「俺も間違ったことをしたとは思ってはいない。しかし、軍には軍の規律というものがある。それに背くようなことを、俺はしたのだ」
「間違ったことをしてないのに罰せられる規律なんて、糞喰らえ」
「理不尽だろうが何だろうが、歓を悲しませるようなことを招いてはならない。上官に反抗すれば、打ち首だぞ」
 それで、王双は何も言い返せなくなった。
 少し調子に乗り過ぎてしまったかもしれない。今、自分がやることは、与えられた仕事を最低限にこなして洛陽へと帰還することなのだ。趙顒という男に足蹴にされた時はさすがに頭に血が上りそうになったが、家の隅で震えていた王歓の姿を思い浮かべると悲しいほど冷静になれた。
「王双、軍の中にいる時は、上官の言葉は絶対なんだ。ここではいらぬ感情は捨てろ」
 それは自分に対する言葉でもあった。王双はまだ不満そうな顔をしていたが、その不満そうな顔をじっと見つめると、わかったよ、と折れた。
 自分が死んでも王双が死んでも、王歓は悲しむのだ。今だけ我慢すれば、洛陽での楽しかった日々は戻ってくる。
 暗くなっても夜襲を警戒するため、歩哨は動き回り炎はつけられたままだ。そのゆらゆらと燃える炎が、王平の眼にはどこか不快なものに見えた。


6.牢獄

 辟邪隊の初陣が決まった。行き先は下弁。劉備軍に占領されたこの地を放っておくと、陽平関を攻める際に側面を突かれることになる。逆に下弁を奪っておけば、こちらの攻め手が増えることとなるのだ。下弁攻略部隊の司令官は、長安から来た曹洪という将軍だった。その下に若い副官が二人いて、曹休、曹真という。三人とも夏侯淵と同じく、曹操の親族である。
 対する相手の将軍の名を聞き、王平はぎょっとした。張飛。昔、巴西で見たことがある虎髭の将軍だ。あんな化け物と戦わなくてはいけないのかと思うとさすがに気が引ける。
 与えられた兵糧は、ぎりぎり足りるかという程度のものだった。もう少し余裕があってもいいのではないかと思いはしたが、それは曹洪という将軍の性格がそうさせているのだと耳に挟んだ。辟邪隊は森の中で獣を捕ってそれを食糧とすることもあるのでその量に問題はなかったが洛陽出身の兵でそれを愚痴る者が幾らかいたらしく、打ち首にされた五人の首が陣中に晒された。趙顒に蹴られた際、一歩間違えば自分もああなっていたのかもしれないと思うと、その五人の晒し首はとても他人事とは思えず、王平は戦慄した。
「お前が、辟邪隊の王平か」
 辟邪隊が指揮下に入る、曹休将軍だ。あばた顔の曹真と馬を並べて軍の見回りにきたところで話しかけられた。
「丞相が、お前のことを褒めて下さっていたぞ。今回の戦では、良い働きを期待している」
「恐れ入ります」
 隣にいる曹真は、自分達には無関心そうな顔をきょろきょろとさせていた。
「兵糧は足りているか」
「はい、足りています」
 試されているのかもしれないと思い、王平は背中に冷たいものが走った。しかし曹休の顔を見ていると、そうではないのだとすぐに分かった。
「無理はするな。もし足りぬと感じれば、私に言ってこい。配られる兵糧は多いものではないが、決して蓄えが少ないというわけではないのだ」
「わかりました」
 そしてその曹休と曹真は数騎の供を連れ、見回りへと戻って行った。思っていたより、話の分かりそうな上官だった。兵の首を晒したのは、将軍である曹洪か、兵に無関心そうだった曹真がしたことなのかもしれない。
 やがて陣営がそわそわとし始めた。もうすぐ始まる、という緊張感が軍内に充溢していた。そして命令が下された。夜間での、敵陣のかく乱。敵の名は雷銅。陽動の構えを見せる張飛の軍が、下弁の本陣を離れている間にそこを急襲しようという作戦だ。あの虎髭将軍が相手ではないということで、王平の胸は幾らか安堵した。
 進発前に曹休に呼ばれ、敵陣周辺の地図を見ながらどのように攻めるかを話し合った。
「敵の主力は、我等の後方を突こうとして本陣から離れている。この隙に、孤立した雷銅を叩く。それをやり易くするのが、お前等の仕事だ」
 敵本陣は歩兵で力押しに攻め込むには難しい場所に置かれているが、夜陰に山中を忍べば後方撹乱くらいはできそうだと思えた。
「敵は正面に柵を立てて構え、後方に山を背負っている。辟邪隊は山中を通って敵の背後を乱せ」
 王平の思いついたことと同じだった。辟邪隊の力があれば、難しいことではない。これなら安全に勝てる。勝ち抜けば、洛陽へと帰れる。
 辟邪隊の陣営に戻ると、さっそく部下達に準備を整えさせた。
「俺達が先ず敵をかき乱す。王双隊は機を見計らって突っ込んでこい」
「隊長殿、血が沸いてきたぜ。俺達の力を、敵にも味方にも見せつけてやろう」
 初陣で緊張しているかと思ったが、王双はそんな素振りは全く見せなかった。上手く隠しているのかもしれない、とも思えた。
 まだ陽が高いうちに、目的地へと出発した。隊を五つに分け、敵の眼を避けるために険阻な道を選んで進んだ。進む森の中に茂る木々は、洛陽周辺のそれとは違うものだった。王平にとってその森は、とても懐かしいものであった。
 夜が更けた頃に、予定していた集合地点に無事全隊が集まった。敵の背後の山中である。かがり火の数が以外と少なかった。見張りの数も、柵を立ててある前方に比べると極端に少ない。敵は油断している。王平は王双の顔を見て、頷きあった。その場で全員が木々の中に溶け込み、曹休に命じられた時刻を待った。王双隊も辛抱強くその場で体を固まらせていた。静寂しかない山中では、少しの音でも驚くほど遠くまで聞こえるのだ。日が昇り始める直前の暗闇。その時刻までは、あと二刻ほどだろう。夜空に星はなく、空気がよどんでいた。曹操に奇襲をかけて捕らえられた時も、こんな夜の森の中で息を殺していた。今回は、逆に騙されたりはしないだろうか。敵が油断しているように見えるのは、実は誘いなのではないだろうか。時が過ぎるのを待つ間、そんなことばかりを考えた。大丈夫だ、この作戦は成功する。成功すれば、家に帰れるのだ。
 時がきた。敵の陣営は、すっかり寝静まっている。王平は、したたかに一歩踏み込んだ。その合図が、音もなく背後の部下達に伝わっていく。その先頭に立って駆けだすと、もう何も考えられなくなった。数少ない見張りの背後に素早く回り込み、声を出される前に短剣で首を掻き切った。陣内のかがり火が、次々と消されていく。光がなくなろうとも、辟邪隊は視界を失うということはない。敵兵は異変に気付き始めたが、かがり火も星もないこの暗闇の中ではどうすることもできない。背後から、喚声と共に王双隊が突っ込んできた。敵は恐慌状態に陥り、同士討ちをする者も出始めた。王平はすかさず撤収の合図を出した。辟邪隊は素早く山中へと逃げ込み、移動を開始した。背後からはまだ混乱の声がやむことなく、火が消された暗闇の中でそれはやむどころか大きくなっていくばかりだった。移動をしながら、部下の報告を聞いた。一人も欠けてはいない。敵をかく乱させるという任務は、充分に果たせた。奇襲をかける直前に抱いていた不安は何だったんだと思うほどの戦果だった。任務成功の合図である狼煙を上げてきた部下も、無事に合流してきた。帰りは、待ち伏せされる危険性を考慮し、来た道とは違う道を選んで帰った。空が白み始めていた。狼煙を確認した曹休軍が攻撃を開始したようで、戦場から兵達の喚声が聞こえた。
 曹洪は雷銅を討ち取り、下弁を占領すると、張飛軍は陽平関まで退いた。味方の大勝利である。勝利といっても戦の初戦を取ったに過ぎない。それでも王平は、大きな充足感で満たされていた。言われた通りの仕事ができ、部下を誰も死なせることはなかった。曹洪から送られてきた恩賞は少ないもので、それを曹休が気にかけてくれたが、王平にとって恩賞などどうでもよかった。王歓の待つ洛陽に一歩近づけた、と思うだけだった。
 下弁の敵は追い払った。劉備軍は陽平関に集結し、夏侯淵軍は定軍山に本営を進めて睨み合いを始めた。北方からは、曹操が自ら率いる援軍六万が漢中に向かってきているという。
 自陣には精強な張郃軍がいて、もうすぐ自分を手玉にとった曹操が到着する。負けるはずはないと思えた。
「下弁では、上手く敵をかく乱させたようだな」
 陣営に、夏侯栄がぶらりとやってきて言った。
「はい。夜が明ける前に、敵の後方をかき乱してきました」
「その言葉遣いはやめてくれ。と言っても、軍の中では無理なことなのかな。趙顒のことは悪かった。この戦が終われば、あいつは益州を任されることになっているんだ。だから、少し気が立っている」
 夏侯栄の態度は相変わらず大きかったが、悪い気はしなかった。
 下弁でのことを教えてくれと言われたので、王平は通って行った山中の様子や、じっと伏せていた時のこと、陣中に入り込んでどうやって敵を倒したかなど、こと細かに話した。夏侯栄はその一つ一つに頷き、興味深く聞いていた。その後は、将軍達の話をした。
「ここだけの話だが曹洪様はな、けちなことで有名なんだ。指揮官としては上手くやっているが、財に対する欲が深いと丞相が嘆いていたのを聞いたことがある。曹休兄はいい人だぞ。俺は何度か曹休兄に軍学を教えてもらったこがあるんだ。武芸もできるし、何より優しいんだ」
「陣中では我々も、曹休様には声をかけて頂きました。曹真様と一緒に見回りにこられている時のことです」
「曹真様は、軍学はできるのだが、冷たい感じがしてどうも俺は好きになれないんだ。これも、ここだけの話だぞ」
 こうやって話してみれば、普通の幼い少年に思えた。笑いながら見せる夏侯栄の白い歯が、王平の心を暖かくした。夏侯栄というまだ幼さを残した若者は、将来は良い将軍になるのだろうと王平は思った。
「私は夏侯栄様が将軍になられたら、その下で働きたく思います」
「何を言う。まだまだそんな話をするのは早い」
 夏侯栄は顔を赤くさせ、照れを隠すように仏頂面になって横を向いた。
「ところで隊長は、巴西出身だと聞いた。陽平を抜いた後は巴西にも攻め込むことになるかもしれないが、その時に隊長は戦えるのか?」
「戦えなければ、軍人をやっておりません」
「その言葉、本当か? 無理なら無理だと言えばいい。俺がなんとかして父上に取り成してもらえるように言ってやる」
 こういう気の使い方は、まだ子供である。
「洛陽には、子を身籠った妻がいます。私が望むことは、巴西を含めた益州を一日でも早く攻略し、我が家に帰ることです」
「そうか、なら死ねぬな」
「はい、死ねません」
 夏侯栄は何かじっと考え込む顔をした。部下のことを想ってくれているのか、その顔は悲しそうだった。
 それから、夏侯栄は趙顒の眼を盗んでは王平の陣営に遊びにきた。一緒に調練に参加することもあり、その時はいかに相手が将軍の息子であろうと王平は厳しく接した。それを見た王双が顔を青くさせることもあったが、それは夏侯栄本人が望んだことでもあった。
 しばらくすると空気が異常な程に緊張してきた。もうすぐ劉備軍との本格的なぶつかり合いが始まるのを誰もが肌で感じている。辟邪隊は五千の歩兵の中に組み入れられた。組み入れられたところは、明らかに辟邪隊とは異なる質の兵ばかりだった。他の兵達は山岳戦の調練は積まされているもののそれは付け焼刃のようなもので、森の中を移動する時の基本であるこごみ歩きすらできない者ばかりだった。
「隊長殿、この編成はおかしくないか」
 王双がそう言ってくるのも無理はなかった。しかし、たかが一人の校尉である自分が将軍に上申などできるはずもなかった。定軍山の緊張感は頂点に達している。こんな時に編成の文句など言えば、首を落とされかねない。
「我等は六万の中の五百なんだ。これは、仕方のないことだ」
 王双は不満そうに鼻息を鳴らしつつも頷いた。これは仕方のないことだと、本当は言われずとも分かっているのだ。六万の中の五百でも有効な戦い方はある。しかし王平にとってこの戦の勝ち負けなどどうでもいいのだ。どんな戦い方をしようと、生きて、洛陽に帰る。そして王歓と生まれてくる子を抱いてやる。思い返せばここでの調練は、勝つためではなく戦場で生き残るためのものだ。戦場で命を失うことに、価値があるなどとは思えなかった。生き残れてこそ、色々な喜びを手にすることができるのだ。
 劉備軍は陽平関から河を下り、定軍山からほど近い興勢という所に陣営を築いた。そこでさらに睨み合い、いつ戦火が開いてもおかしくはないという状況が十数日続いた。蔓延する緊張感を小出しに吐くかのような小競り合いはあっても、大きなぶつかり合いはまだない。曹操自身が率いる援軍は洛陽まで来ているという。援軍が到着するまで定軍山を死守すれば、この戦は勝ちだった。それでも日が経つにつれ、陣中からは総攻撃をかけようという声が上がり始めた。興勢から一気に攻めてくると思った劉備軍が攻めてこない。それが定軍山の不安と緊張を爆発させようとしていた。夏侯栄が言うには、夏侯淵将軍は先に動いた方が負けだと言っているようだ。しかし、徐々に増えていく攻勢派の意見を抑えきれなくなってきていた。

 王平が組み込まれた五千に任務が与えられた。定軍山から出て敵陣を迂回し、陽平から興勢に送られてくる物資を断てというものだった。それが成功すれば目の前の劉備軍は孤立することになるが、王平はその作戦が成功するとは思えなかった。五千のほとんどがこごみ歩きもできない兵だ。敵陣を迂回しようが敵に捕捉されずに後方へ回るのは至難だろう。それでも、将軍の命令には従うべきだった。それに反論しようものなら、一人の校尉である自分の首は簡単に飛ぶ。
 作戦自体は不安なものだったが、動き方によれば辟邪隊だけは大丈夫だと王平は腹を括った。森の中での動きには自信がある。移動中は五千の中心ではなく、端の方を静かに進めばいい。そして敵と遭遇したら、適当に戦って逃げればいい。
 進軍の仕方は、思った通り雑だった。五千が木々を大いに揺らして目的地に向かい、その様子に驚いた鳥達は慌ててそこから飛び立って行った。それでも五千の指揮官は、敵陣から遠いところを進んでいるから大丈夫だと思っているようで、その進み方をやめようともしない。辟邪隊はいつでも敵に遭遇してもいいよう、なるべく五千の外側を位置取って進んだ。臆病そうな者はなるべく五千の中にいたがったが、敵に襲われた時に一番混乱するのは中心にいる兵だということを辟邪隊は嫌というほど知っている。王平が指揮する五百はこごみ歩きで音もなく進んだ。ここみ歩きだからといって、普通に歩く他の兵に遅れを取るということはない。
 目的地まで半分かというところに達した時、王平は何か不穏なものを感じた。敵が見ている。それは勘のようなものであり、確信ではない。王双もそれに気付いたらしく、こちらに眼で合図を送ってきた。王平はその場で辟邪隊を止めた。五千の指揮官に敵がいると伝えるべきか。伝えたところで、確信もないこの勘を信じてもらうことができるのか。辟邪隊は進軍を止めたが、残りの四千五百は音を出さない辟邪隊に気付くことなく進んで行った。
 敵襲。前方からその声が聞こえるのに長い時間はかからなかった。敵の数は分からない。状況からしてその数は多いとは思えなかった。しかし視界の利かない森の中では、寡兵を大群と見誤ることは珍しくない。前を行く四千五百は、たちまち混乱の渦に巻き込まれていった。当然のことだ、と王平はそれを冷たい眼で見ていた。助けに行くつもりはなかった。無理に行けば、錯乱した仲間に攻撃されることも考えられるのだ。こごみ歩きもできずして、森の中で戦えるはずはない。目の前に敵兵らしい数人の影が走って行った。辟邪隊はそれをやり過ごすため、その場で息を殺した。敵の一人を見て、思わず王平はあっと声を漏らしてしまった。敵兵がその声に顔を向けてきた。それと同時に王平は一歩後ろに退いた。撤収の合図である。敵はこちらの様子をじっと窺っていた。その中の一人に、王平の眼は釘付けになっていた。句扶。顔に迷彩が施されていたが、一目見てすぐに分かった。向こうも自分に気がついたのか、その眼はじっとこちらに向けられていた。王双に腕を掴まれ、ようやくその眼をはずすことができた。辟邪隊のほとんどは、既に離脱してしまっている。もう一度目の前を向いてみたが、もうそこには誰もいなかった。
敵の兵站を潰しに行った五千は、ほぼ壊滅させられた。ただ辟邪隊だけが無傷だった。隊長として正しい判断ができ、部下を死なせずに済んだ。劉備軍の山岳部隊に、句扶がいた。それは王平にとっては、とても複雑なことだった。
「貴様は、巴西出身だったな」
 陣に帰還した辟邪隊のもとに、珍しく趙顒がやってきた。周りには、ものものしい雰囲気の兵達を連れていた。王平の背中に、嫌な予感が走った。
「何故、辟邪隊だけが無傷で帰ってこられた」
 裏切りの疑いをかけられている、とすぐに分かった。裏切りは、問答無用で打ち首だ。冗談じゃない。俺は、洛陽に帰らなければいけないんだ。
「我々辟邪隊は、山岳地帯で隠密行動をとるためにつくられた部隊です。山中では敵に気付かれないよう動き、敵と遭遇したとしても勝てないと判断すれば被害を最小限に戦場から離脱することも仕事の一つです」
「味方が目の前で殺されていたとしてもか。山岳戦のためにつくられた部隊なら、どうして味方のために山の中で戦おうとしないのだ」
「恐れながら、辟邪隊は敵を奇襲するための部隊です。その数も五百のみですので、五千を襲おうとする敵にぶつかればいたずらに被害を増やすだけです」
「下らぬ言い訳に過ぎぬ」
 趙顒が手を上げると、周りの兵が王平に槍の穂先を向けた。
「捕えろ」
 王平は兵三人に抑えつけられ、手枷がつけられた。
「趙顒様、これはあんまりです。私は、無駄に兵を消耗することなくここに戻ってきたのです」
 趙顒はそれに耳をかそうともせず、背中を向けて行ってしまった。そして王平らは、定軍山の地下につくられた一人一室の牢獄に手枷をされたまま入れられた。
 牢獄の中は暗く、ひどい臭いがたちこもっていた。獄の隅には用を足すための溝があるが、その溝には水を流しても流れていかなかった糞が塊となってひどい臭いを放っていた。何故こんなことになってしまったのか。このまま、俺は首を落とされてしまうのだろうか。戦中とはいえ、これはあまりにも理不尽過ぎはしないか。
 牢内で出された飯は何なのか暗くてよく分からないが、所々が固くて臭いものだった。手が使えないので、それを首だけで犬のように食う。まずい飯だが、早く食わなければ、糞をするための溝から入ってくる鼠に横取りされてしまう。こんな所で死んでたまるか。王平は洛陽で待つ妻の姿を暗い牢の中に思い浮かべ、妻子のためにと思いながら我慢してその臭くて固い飯を食った。牢獄の出入り口からは、牢の中へと光が漏れてきている。その光が陰によって遮られれば、誰かが入ってきたということだ。牢の中では、それくらいの変化しかなく、王平はその光を見つめながらじっと時が過ぎていくのを待った。
 四日目に、入ってきた兵にそこから出され、大きめの幕舎へと連れていかれた。中には、見覚えのある男が卓上で書を認めているところだった。その男が、横目でちらりとこちらを見た。
「手枷を解いてやれ」
 言われて、自分は殺されないのだと分かった王平は大きな息を一つ吐いた。よく見ると、その男は具足を解いた張郃だった。張郃はしばらく何かを書くと筆を置き、王平の方に体を向け直した。
「お前は、私の軍に組み込まれることとなった」
 張郃は無表情でそう言った。もしかすると、この人は自分のことを憶えていないのかもしれない、と王平は思った。
「趙顒殿に反逆の意思ありとして牢に入れられていたようだが、夏侯淵将軍の御子息から陳情があったのだ。そこでお前の戦場での判断を見直してみたのだが、私は何も間違えがあるとは思えなかった。だから、お前は私の指揮下に入ることとなった」
 軍人らしい、無駄のない言葉だった。王平はその場に平伏し、謝意を述べた。
「ところでお前は、夏侯栄将軍の御子息と何度か調練をしたと聞いたが、どう見る?」
 意外なことを聞かれ、王平は顔を上げた。
「我等のような兵にも気をかけて下さいます。将来は、必ず良き将軍にお成りになるかと存じます」
「そうか。私もそう思う」
 言って張郃は少しだけ笑みを見せた。そして椅子から腰を上げ、具足をつけ始めた。
「もうすぐ大きなぶつかり合いがある。劉備軍が、それを望んでいるようなのだ。お前にも、すぐに働いてもらうことになるぞ。本番の戦ではあの時のような負け方は許されんぞ」
 憶えられていた。王平は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。


7.大敗戦

 辟邪隊の中へと戻ると、王双を始めとする部下達がほっとした顔をこちらへ向けてきた。隊長である自分が捕らえられたので、辟邪隊はどうなるのかと気が気ではなかったのだ。
 王平は自分の隊をぐるりと見廻り、何の異常もないことを確認すると、無事ここに戻ってこられた嬉しさを表に出したい欲求を殺していつも通りの調練を始めた。いつも通りのはずの森の中。しかし何かが違った。牢に入れられていたから体が鈍ったということではなく、自分の手足として動くはずの兵達が思うように動かないということだ。
 兵の士気には常に気を配れ。杜濩に何度も言われた言葉が思い出された。上官に対する不信感。それは王平に向けられたものではなく、何の罪もないどころか上手くやってくれている隊長を牢獄へとふちこんだ者に対する不信感だ。
 調練を終えた後、王平は王双と山岳民族の小隊長を横一列に並ばせ、隊の全員が見ている前で順番に掌でその頬を叩いていった。
「お前ら、何を考えているのか知らんが、思い上がるな。今日の気の抜けた調練は何なのだ。あれが本番であれば、皆死んでいたぞ」
 いつもなら、叱れば従順にその話に耳を傾けてくれていた。しかし今回は、少し様子が違う。
「隊長殿」
 王双が一歩前に出た。
「何故、隊長殿が牢獄に入れられたのか皆納得できていません。あの時の隊長殿の判断は正しく。無能だったのは」
 言い終わる前に、王平は右拳を王双の鳩尾にめり込ませた。
「俺が牢に入れられたのは、与えられた命令の意に背いたからだ。そして俺の命がまだ長らえているのは、将軍の慈悲のおかげだ。これ以上の不満を見せる者がこの隊にいれば、俺がこの手で容赦なく斬る」
 自分でも、言っていることに違和感はあると思った。しかしこの瞬間も、どこで趙顒の手の者が辟邪隊を監視しているか分からないのだ。それを分かってか分からずか、それ以上王平に反論する者はいなかったが、その言葉を素直に受け取っている者がいないことはひりひりと肌に取って感じられた。
「そんなことは、させないでくれ」
 そう言い捨てて王平は背を向け、逃げるようにして自分の簡素な幕舎へと戻っていった。しばらくして王双を呼ぼうかと考えていると、その王双が自分からやってきた。無言の王双の顔には怒りや憎しみの色はなかった。
 王双は、王平と向かい合って座り、言った。
「狭くて、臭い幕舎だな、ここは」
 確かに与えられた幕舎は他の隊長が使うものより小さく、腕を伸ばすと端から端まで指先が届き、中では汗の酸い臭いが籠っていた。何故、うちの隊長にはもっと良い幕舎を与えられないのだ。王双は、言外にそう言いたいのだろう。
「さっきはすまなかった」
「何を謝る、隊長殿」
「腹を殴ったことだ」
「なんの。上の者がどこで俺達のことを監視しているか分からないしな。それを知った上で、俺はあえてああ言ったのだ」
「ここは軍なのだ、王双。私情を挟んでは死ぬことにも繋がりかねんと、どうして分からん。張郃将軍に負け、仲間を失った時のことを忘れたのか」
「隊長殿が皆のことを大事に思ってくれていることはよく分かっている。だからこそ、皆は隊長殿を牢に入れ、首を斬ろうとした奴のことを憎んでいて、隊長殿のために怒っているんだ。しかし隊長殿は」
「俺のためなど、無用なことだ」
「それは部下達も同じことだ。戦場に来たんだから、自分の死は全員が覚悟している。その覚悟を、隊長殿は無視してはいないか。それとも」
 王双が一歩乗り出した。
「隊長殿は、部下の命を守りたいのか? 自分の命を守りたいのか?」
 王平は、自分の髪の毛が逆立つ思いがした。
「今の言葉は、聞き捨てならん」
「あんたが妹のために洛陽に帰らなければいけないのはよく分かる。俺だって、そう望んでいる。しかし、そのために何か大事なことを忘れてはいないか。はっきり言おう。洛陽では頼もしかった隊長殿の姿が、漢中に来てからは違う姿に見えてならないのだ」
 その言葉が、王平の心をえぐった。
「俺が、隊長失格だと言いたいのか」
「そうじゃない。あまり妹のことには囚われ過ぎてくれるなと言っているんだ。そんな隊長殿の姿、俺は妹には見せたくない」
「子が生まれてくる。この気持ちがお前に分かるのか。俺が帰らなければ歓は一人でその子を育てていかなければならないのだぞ。俺は、歓にそんな苦労をかけさせたくない。俺は、どんなことをしてでも洛陽に帰らなければいけないのだ」
「辟邪隊は、今は戦場にいるんだ。そんな想いは言い訳や泣きごとにしか聞こえないと、俺はそう思った。だから、それを伝えにきたんだ」
 頭に一気に血が昇った。そして、自分が抑えきれなくなった。
「黙れ」
 左手で王双の口を掴んで押し倒した。
「俺は洛陽を出る時、歓の姿を見てきた。家の隅で肩を震わせて一人で泣いていたんだ。俺はそれに何の一言もかけることができなかった。その時の俺の気持ちが分かるか」
 下に押しつけられている王双は無抵抗で、静かな視線を王平に向けていた。
「俺がここで死ねば、それが俺が最後に目にした歓の姿になるのだぞ。ここで死ねば、歓は永遠に家の隅で肩を震わせて泣いているだけなのだ。そんなこと、俺には耐えられない」
 声を荒げて呼吸を弾ませた。
 口から出てくる言葉がなくなると王平は王双の体から離れ、ばつの悪い気持ちを視線と共に王双から逸らした。
「すまなかった。別に俺は隊長殿のことを責めに来たわけじゃないんだ」
 それに王平は、無言で返した。呼吸は、まだ荒い。
 長い沈黙が流れた。王双の言うことが分からないわけではないのだ。現に、王平には何も言い返すことができない。
「それと」
 ただ俯くだけの王平を見かねてか、話は変わるのだが、と王双は言った。
「それと、句扶って名前を知ってるかい?」
 思わぬ名前が出てきて、王平ははっと顔を上げた。
「その様子じゃ知ってるようだな。隊長殿が戻り次第、話がしたいと伝えてきたよ」
「それを、他に知っている者はいるのか」
 つい声が大きくなり、王双はしっと王平を宥めた。
「これを知っているのは、俺だけだ」
「そうか。その句扶ってのは、益州にいた時の知り人だ」
「俺の頭は良くないが、そいつがどういう目的で隊長殿に近づいてきたかは概ね分かる。前の作戦の時に森の中で隊長殿が何かをじっと見ていたのは、そこに句扶って奴がいたからだろう?」
 王平はじっと考え込み、
「ああ、その通りだ」と、答えた。
「じゃあ俺は言いたいことを言ったし、伝えるべきことも伝えたぞ」
言って、王双は腰を上げた。
「言っておくが、俺はいつでも隊長殿の味方だよ」
 それは王平の心の奥底に響き、その響きはどこか痛くも感じられた。
 一人になると、王平は臭い幕舎の中で横になった。長い間、何を考えることもなくその場にじっとしていた。
 きん、きん、きん。その音を耳にし、王平は目を覚ました。いつの間にか寝ていて、外はもう闇夜に包まれていた。幕舎から外に出た。空は暗く厚い雲に覆われていて、それは月や星の輝きの一切を禁じていた。漢中では、こんな天気が多かった。さっきの金属音は、現実に聞こえた音か、それともただ夢の中でのことなのか。幕舎から這い出た王平は、新鮮な空気を心一杯吸い込んだ。それを吐き終える頃にまた、微かな音が三回聞こえ、そちらに目をやった。暗闇が隠す木々の中を凝視した。するとすぐに、小さな人影が音も立てずに這うようにして現れた。身構えはしなかった。それが句扶だと、すぐに分かったからだ。
 お久しぶりです。
 目の前の句扶が唇の動きだけでそう伝えてきた。
 句扶が手で合図をするので、王平はそれについて行った。軍営から大分離れ、声も届かなくなったところでよやく二人は口を開いた。
「よく来てくれた、句扶。ここまで来るのに、危険はなかったか」
「益州の森は、我等の庭のようなものです。大勢では無理ですが、一人で来るのには難はありません」
 軍人らしくはきはきと答える句扶は、王平が知っている句扶ではないと思えた。あれから、もう五年も経ったのだ。
「兄上がまだ生きていると知り、驚きました。私がここに来たのは、兄上を巴西へと連れ戻すためです」
 兄上と呼ばれ、母のことを思い出した。
「巴西の母上はどうしている」
 句扶は少し黙りこんだ。その様子を見て王平は不安になったが、
「御健勝です」と、少しの空白の後に出てきたので安心した。
 顔に、何かの飛沫を感じた。すぐに葉が鳴る音が上から聞こえてきて、雨が降ってきたのだと分かった。
「俺は今、曹操軍で山岳部隊を率いている」
「辟邪隊ですね」
「知っているのか」
「曹操軍のことは、大体調べています。私はそういう仕事もしていますから。下弁で雷銅将軍の陣を乱したのは、辟邪隊だということも知っています」
「では、俺が妻帯していて、もうすぐ子が生まれるということも知っているか」
「いえ、それは初耳です」
 句扶はずっと、同じ調子で受け答え続けた。
「俺も、お前とまた会えて嬉しい。しかし」
 突然、王平は短剣を喉に突き付けられた。驚きはしたが、それに殺気がなかったので、身じろぎすることはなかった。
「何故、敵を前にして動きを止めたのか、と聞かれました」
 句扶が、短剣を下げながら言った。
「巴西の知り人がいたから、と言うと、調略して来いと言われました。それが無理だと分かれば、殺してこいとも」
 ぼそぼそ喋るその声は、なんとか聞き取れるほどだ。そんな句扶は、昔と同じだと思えた。
「そうか。どうするかな、戦場でまた会ったら」
「その時は、殺して下さいよ」
「何を言う。そんなことできるか」
 王平が笑いながら句扶の肩を抱くと、句扶も剣を下して照れたような笑みを見せた。昔の時が、ようやく戻ってきたような気がした。
 それからしばらく、雨の中でこの五年間のことを話し合った。妻になった王歓のことや、益州で着々と出世を重ねる張嶷のことや、それぞれの軍内の生活のこと。名を王性に変えたことは何となく言いづらく、言えなかった。
 二刻程話すと、二人は別れた。あまり長く軍営を離れていると、またいらぬ疑惑をかけられてしまうかもしれない。雨で濡れた森。その中を行きながら、早く終わらぬか、と出たその言葉が、やけに大きなものに感じられた。

 張郃の陣営は厳かで、時々思い出されたように兵が返答する大きな声が聞こえる。十日前、張郃軍は夏侯淵軍を補佐するに相応しい場所に陣を移した。側面が切り立った崖で守られている、天然の城といえる要害だ。そこは走馬谷、と呼ばれていた。
 王平の辟邪隊は谷の麓に陣取った。敵が走馬谷に攻めてくる場合は、先ずここを通るだろうという場所だ。張郃軍本営に指示されたその配置は敵に対して絶妙だとも思え、辟邪隊に対する微妙な不信感もあるのだろうということも見て取れるようだったが、王平は気にしないようにしていた。
 王平は一日に一度、夕刻になると張郃の幕舎に行ってその日の報告をした。張郃は王平に対して特に冷たいということはなかったが、その周囲の幕僚からはどこかよそよそしい雰囲気が感じられる。それは自分の肌に山岳民族特有の浅黒さがあるせいなのか、趙顒に裏切り者の濡れ衣を着せられてしまったからなのかは分からない。
 辟邪隊の面々は自分等が軍の中心から遠ざけられていることに薄々気づいているようだった。それには王双が一番に文句を言ってくるかと思っていたが、それはなかった。もしかしたら、王双を始め部下等は不甲斐ない自分に対しても不満を持っているのかもしれない。しかしそんなことが直接部下に聞けるはずもなく、王平はただ不安になっていった。
「句扶という者に会った」
 ある日の夜、王双呼んで言った。王双はその眼をこちらに向けたまま、黙って頷いた。
「懐かしかった。昔のことや、俺が巴西を離れてからのことをしばらく話して別れたんだ」
「そんなことを言うために、俺をここに呼んだのかい?」
「俺は、辟邪隊の隊長だ。いままでも、これからもだ。それを言っておきたかった」
「そんなこと、分かりきったことじゃねえか」
 言いたかったことは、そんなことではなかった。王平は、その後の言葉に詰まって右手で頭をかきむしった。
「王双、俺は何故戦っているんだ」
 自分は何を言っているのだと思う。しかしそれは心の底から出てきた言葉だった。
「妻子の所にいることもできず、味方からは牢獄にぶちこまれ、部下達には肩身の狭い思いをさせている。俺は、もう嫌だ」
「隊長殿、ここは戦場だぞ。こんな時に何を弱気なこと言ってんだ」
「言うべきではない。それは分かっている。だから、お前にだけ言っているんだ」
 慰めの言葉が欲しかった。しかし、飛んできたのは王双の張り手だった。
「何故戦うのかって、生きるためだろう。負けて死ねば、大事なものを失うから戦うんだ」
 体を起こすと、王双が自分の頬を指差していた。王平はそこに、思いきり張り手を打ち返した。
「そうだ。俺達が初めて会った時のことを思い出すんだ。あの時は、洛陽でどうやって生き残るか考えた挙句、俺に挑んできたんだろう。それは、頭の悪い俺でもよくわかった。その時のことと全く同じことじゃないか」
 昔と今では違う。出かかった言葉を、王平は飲み込んだ。
「勝てばいいんだな」
「そうだ、勝てばいい。それは言うまでのことでもねえ」
 そう言い残し、王双は出て行った。
 勝つと言って、誰に勝てばいいのだ。句扶のいる劉備軍にか、味方であるはずの趙顒にか、それとも自分自身にか。一人になった薄汚い小さな幕舎の中で王平は考えた。考えても仕方のないことだ、と思いながらも懸命に考えた。
 敵が総攻撃を仕掛けてきたのは、王双に殴られたその次の日だった。何の前触れもなく、岩山で隠れた谷の上にある張郃軍本陣から火の手が上がった。月明かりが僅かに照らす闇夜である。見張りの報告で王平は飛び起き、夜陰に目を凝らしてみると、岩肌が剥き出しになった谷の壁をたくさんの蟻が這うように何者かが登っているのが見えた。劉備軍の奇襲。それは思わぬ所から仕掛けられた。
 王双がやってきて、すぐに辟邪隊も谷を登って救援に行くべきだと言っている。逸る王双を手で制しながら王平は考えた。自分が敵なら、どうするか。さっきまで迷っていた自分が嘘のように頭が回転し始めた。
「もうすぐ敵の本隊がこの近くを通る。それを、辟邪隊は迎え撃つ」
 皆を前にして王平は言った。谷の上からは混乱の声が間断無く続き、それを聞いていると今すぐにでも本営へと駆け付けたい気持ちになった。王双も同じなのか、まだ何か言ってこようとしたのを王平は今度は眼で制した。
「下弁でのことを思い出せ。曹休将軍は先ず我々に敵陣を乱れさせ、本隊をぶつけた。劉備軍はそれと同じことやろうとしているのだ。ここで谷に向かえば、逆に我々が敵の本隊に背後を突かれることになるぞ」
 敵の本隊はまだ見えてはいない。しかし、すぐそこにまで来ているはすだ。
 八方に斥候を飛ばした。その間に王平は森の中に潜み、来たる劉備軍に備えた。半刻が過ぎた頃に斥候が戻り、敵本隊が既にここから二里までに近づいていることが分かった。正に間一髪であった。敵の斥候に捕捉されぬよう、王平はそれ以上の斥候を出すことを止めた。
 来た。敵の先頭である。王平は、その先頭を行く者に狙いを定めた。飛刀を得意とする者を、王双も含めて十五名前に出した。劉備軍兵士の表情が見て取れるまで近づいた。句扶ではない。そう思ったその顔に、音もなく飛刀が突き立った。その周りの兵士も同時に何人かが倒れた。
「敵襲」
 叫び声が上がった。辟邪隊は、そのまま森の中へと下がった。敵の正確な数は分からないが、行軍途中で伸びきっている軍に対しては辟邪隊の五百だけで十分だと思えた。案の定、敵は少数で森の中に侵入してきた。調練と同じだ。方々で戦闘が始まった。敵の前衛をある程度倒し、退き、また倒すことを繰り返した。戦いの主導権は辟邪隊にあった。ここでの辟邪隊の役目はどれほど敵をここに釘付けにできるかであり、あとはどこで引き上げるかである。もうそろそろ限界かと思った時、不意に別の方向から喚声が上がった。その方向には、味方はいないはずだ。敵本隊は幾つかに分かれて進軍していたのだと王平は気づいた。何故こんな簡単なことを見落としていたのだ。斥候を出すのを途中で止めたのを悔やんでも、もう遅かった。敵を引き込んでいた辟邪隊であったが、逆に包囲される形になってしまった。
 どうする。そう考えても何も浮かばず、王平の頭には張郃に負けた時のことばかりがよみがえり、何も考えられなくなった。
「隊長殿」
 そう呼ばれ、はっとそちらを見た。
「ここは俺が突破してやる。皆を逃がすんだ」
 待て、とも言えず、王平は言われるままに王双の後を追った。新手が見えてきた。張の旗。先頭にはあの虎髭将軍がいた。一際大きな馬と矛を駆る、あの虎髭だ。王双はそこへ矢のように突っ込んで行った。逃げると思っていたのが突っ込んできたのに驚いたのか、虎髭将軍の隊は一瞬たじろいだ。その隙に、部下達はそこから離脱していく。
「そいつはだめだ、王双」
 叫んだが、遅かった。馬上から矛が振り下ろされ、王双の左腕が、折れた木の枝のように舞った。どす黒い血液が淡い月光の中に散り、飛んだ左腕は艶めかしく地面に落ちた。王平は白くなった頭で、体が勝手に手にある短剣を放っていた。短剣は馬の喉に刺さり、とどめを刺そうとしていた虎髭将軍は棹立ちになった馬に振り落とされた。駆けた。苦痛に歪む王双の顔。その大きな体を担いで走り、森の中へと逃げ込んだ。すぐ後ろまで追い付かれているようで、恐くなって必死に逃げた。
 しばらくして、追手が来ていないことに気付いた。虎髭将軍は自分達のことより、張郃本陣を攻めることが先決だと判断したのだろうか。王平は着ているものを破り、人の体ではないように赤く蠢く王双の左腕にそれをきつく縛った。
 敵は、意外と早く走馬谷から引き上げて行った。辟邪隊が敵本隊を釘付けにしていたお陰で本営は早く混乱から立ち直ることができたのかもしれない、と王平は思った。張郃幕舎へと報告の前に、王双を養生場までつれて行った。そこはおかしな臭いが立ち込めていて、多くの兵が怪我に苦しんでおり、中には「お母さん」と連呼している者をいる。そこの医者は先ず王双の怪我を水で洗い、真っ赤に熱された鉄をそこに押しつけた。肉が焼ける嫌な臭いがし、王双は奇声を上げて気絶してしまったが、化膿を防ぐためにはそれが一番いいらしい。
 それを見届けたところに、張郃からの出頭命令が出た。辟邪隊の働きは決して小さくなかったはずだ。左腕を失った王双のためにも、曹洪の時のような安っぽい恩賞には甘んじられないと、王平は腹をくくった。
「王平です。入ります」
 中では張郃と三人の幕僚が四角い卓の向こう側に並んで座っていて、王平はその向かいに座るようにと促された。
「王平、よくやってくれた」
 当然だ、という思いと共に胸を張った。
「辟邪隊に、続いて任務を与える。定軍山の夏侯淵将軍をすぐに救援してこい」
「御意」
 聞くべきかどうか、一瞬迷った。だが王双の苦痛の顔を思い浮かべると、聞かずにはいられなかった。
「我が隊の隊長に、左腕を失った者がいます」
 言って、やはり言うべきではなかったと少し後悔した。その場の雰囲気が、その言葉を許してくれそうになかったからだ。
「恩賞のことか、王平」
 張郃が穏やかな声で、しかし苦々しい顔で言った。
「そのことなんだが」
「それに対する恩賞はない」
 張郃の隣に座る者が言った。
「今回の敵を退けることができたのは、夏侯淵将軍がこちらに援軍を向けられたからだ。敵は、その援軍と我々本隊との挟撃を避けるために退いたのだ」
 聞いて、王平は全身の血が逆流するのを感じた。ならば辟邪隊の戦は、全くの無駄だったとでもいうのか。表面に出そうになるその憤りを、王平は懸命に抑えた。
「そういうことなのだ、王平。その援軍のために夏侯淵将軍の陣は手薄となり、こうしている今も敵に攻められている」
 張郃は、諭すように言った。
「手柄を立てたければ、そちらで立ててこい。分かったら、早く行くんだ」
 また隣が、偉そうな口調で言った。王平は恭しく頭を下げ、そこを後にした。

 昔は、戦とは格好の良いものだと漠然と思っていた。だが現実には、それは自分にとってただ空虚なものでしかなかった。しかしやらねば、首を斬られる。戦場に立った軍人は、後に退くことは決してできないのだ。
 走馬谷の陣を出て定軍山へ行く道を半分も行くと、戦う兵の声が聞こえてきた。定軍山は、戦の最中である。王平を始めとする辟邪隊は、進める足を速めた。
 足の裏に伝わる石、草、小さな窪みの感覚が、全て煩わしく感じられた。俺は何をしにあそこまで走って行くのか。戦場のどこかで野たれ死ぬため。いくら否定しようとしても、それを否定しきることができなかった。
 戦場を目指して走っているはずなのに、目的地からはどんどん遠ざかっていく気がした。しかし、足を止めることはできない。俺は歓の元へと帰りたいのに、どうしてあんなところへ行こうとしているのだ。あそこは、俺が行かなくてはいけない場所から最も遠いはずではないか。それは王双から左腕を奪った。与えられたものは何一つなく、ただ奪った。次は俺から何を奪おうというのか。たった一握りの者が何かを得るために、俺が何かを失わなければいけない理由などあるのか。それは怖い、怖いものだった。
 来てはいけない所に、来た。それも、嫌になる程に早く。定軍山の方々からは火が上がり、木が焼けるにおいに混じって人の焼けるにおいもする。先ずは、定軍山の山頂にある本営に行かねばならない。辟邪隊は定軍山を覆う森の中に飛び込み、曹軍でも限られた者しか知らない裏道を通って山頂を目指した。進むごとに固い葉が王平の体を引き戻そうとし、湿った地面は行こうとする足を掴んでくるようだった。途中、気配を感じた。それで一度隊を止めたが、その気配は一瞬通り過ぎただけでそれ以上は何も感じず、動物か何かだろうと思い定めてそのまま隊を進めた。
 本営まで来ると。夏侯栄の怒声が聞こえた。所々が砂で汚れてまだらになった白い幕舎内からである。その中へ入ると、顔を真っ赤にして怒り狂う夏侯栄が手に血塗られた剣を、その前では兵が胸を赤く染めながら慌てふためいていた。その周りには顔を蒼白にした幕僚が居並び、そこには趙顒の姿もあった。
「父上が討ち取られたなどと、そんなことがあってなるものか」
 斬られた兵は伝令だろうか、胸から血を噴出させながらその血を両手で必死に止めようとしている。さらに剣を振りおろそうとする夏侯栄を趙顒が羽交い絞めにして止め、斬られた兵は引きずられるようにして退出していった。王平の横を通り過ぎたその兵は、何が起こったのか分からないといった顔をしていた。
「遅い、王平」
趙顒の腕を振りほどき、叫んだ。
「俺はこれから前線に向かう。王平、お前も俺と一緒に来るんだ」
 その眼は、既に正気を失っているようだった。
「なりません、栄様」
 趙顒が言った。
「なりませんとはどういう意味だ」
「ここは一度退いてから」
「うるさい」
 王平が、口を挟む余地はなかった。
「父が戦って死んだというのに、何故俺だけ逃げることができるんだ。貴様は俺を、不忠者にしたいというのか」
 趙顒が諌めようとするも頭に血が昇った夏侯栄の耳にはどんな言葉も入らず、全身から怒気を発散させながら幕舎から出て行った。それに釣られるようにして趙顒を始めとする幕僚も出て行き、王平もその後に黙って続いた。
 まだ止めようとする幕僚に夏侯栄は剣を突き付けることで黙らせた。そして、王平の方を向いた。
「隊長、お前はどうなのだ。お前も俺のことを止めるのか」
 向けられた顔は幕僚を睨むその眼とは違い、悲しみに溢れているようだった。まだ、成長の過程にある子供なのだ。
「夏侯栄様、ここでお退きになれば」
「ここで退けば、機はまたいずれ巡ってくる。そんなことは言われなくても分かっている。わかったうえで、俺は退かんと言っているのだ」
 王平は俯いた。ここで行けば、またもう一度洛陽に戻れるという保障はない。だが断ることもできない。それは上司の命令に背けないというのではなく、王平がこの少年のことを助けたいと心底から思っているからだ。
「夏侯栄様、ここは」
「黙れ」
 夏侯栄の顔が先ほどとはうって変わり、猛々しいものになった。王平にはそれが、すごく辛いことのように思えた。
「父が殺されたのだ。このまま逃げ出すなど、男のすることか。俺がここで死んだとして、それが何だ。ここで逃げて生き延びることに、何の意味があるというのだ」
 何も言い返せなかった。
「来たくなければ、来なければいい。俺は一人でも行くぞ、ただ、止めるな」
 止めることはできそうにない。しかし、殺させたくもなかった。夏侯栄に従って行けば、自分も死ぬことになるだろう。死ねば、洛陽には帰れない。歓にも、二度と会えない。
 なら夏侯栄を見殺しにするのか。見殺しにして、自分だけ逃げ、それで生まれてくる子供にどんな顔をして会えばいい。自分の好きな男を見殺しにする。それは生きながらの死ではないのではないか。
 王平は自分が泣きそうな顔になっているのも気にせず、夏侯栄の腕を掴んだ。
「くどい、止めるな」
「行きます。俺も、行きます」
 自分は何を言っているのだ。そう思いながらも、その言葉を止めることはできなかった、
「ならば黙ってついてこい」
 夏侯栄が背を向けた。涙を流している自分に気を使ってくれたのか。難しいことはない。この背に、自分はただついて行けばいいだけのことだ。
「待ってください。どうせ行くのなら、勝ちましょう。我々が調練でやったことを活かすのです。例えば」
 西の茂み。そう言おうとした瞬間、目の前に光る何かが走った。見ると、夏侯栄の頭に短剣が突き立っていた。白眼をむいた夏侯栄の体が音を立てて崩れた。崩れたのは夏侯栄の体だけではなかった。趙顒が、幕僚が、そして自分の部下が、頭に短剣や短い矢をうけて倒れていった。王平は先ほどの、裏道を来る時の微かな気配を思い出した。つけられた。劉備軍の山岳部隊。既にそこは囲まれていた。森の影からの攻撃に成す術もなく、仲間は次々とやられていった。
「皆、逃げろ」
 やっと言えたのはそれだけだった。目の前に躍り出た敵の短剣を咄嗟にかわし、その腕を掴んで折った。腰の剣。抜き、突き出す。腕を折られた兵が血を噴き出して倒れた。もう何も考えられなかった。敵。かわし、開いた体に突き出す。一人、二人、倒した。倒したからどうなる。もう歓には会えない。三人目。その顔は句扶に似ていた。こいつになら、殺されてもいいか。そう思った瞬間、後頭部に強い衝撃を受けた。足が言うことを聞かなくなり、その場に膝から崩れた。死ぬ。すまん、歓。そう声に出したつもりだったが、その前に視界は暗くなっていた。

王平伝①

読んでくれてありがとうございます。でもまだもうちょっと続くんじゃよ。https://twitter.com/nisemacsangoku

王平伝①

時は西暦215年。劉備は兵を率いて巴蜀に入り、王平はその劉備軍の兵となる。時は乱世、時代の流れが容赦なく王平を飲み込んでいく。 脇役の視点から見た三国志、それは今まであまりなかったものだと思います。 組織に属する者は、自分の意思とは関係無くその組織の意向に従わなければならない。それは、今も昔も同じことだと思う。そんなことを念頭に書いてみました。

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-17

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